教会だより

No.67  2022年6月5日

一同が一つになって集まっていると

牧師 石田 透

 
新緑の美しい季節になりました。陽の光もきらきらと輝いています。吹く風もさわやかです。神さまの恵みをたくさん感ずるこの季節に、私たちはペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えました。ペンテコステはクリスマス・イースターと並ぶキリスト教会の三大祝祭日です。言わば教会の誕生日です。最後の晩餐でイエスさまは弟子たちに、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」(ヨハネによる福音書一四章一六~一七節)と約束されました。その約束の聖霊が弟子たちに注がれたのです。CSの子どもたちも「教会の中にいる自分」の絵を描き、それを礼拝堂の入口に飾って教会のお誕生日のお祝いをしました。

 ペンテコステのシンボルは風です。さわやかな風とは違い、それは「激しい風」と表現されています。その「激しい風」を受けて、二千年前の初代教会の人々は心の中に何を感じていたのでしょうか。
 イエスさまの復活から数えて五○日目、弟子たちは全く新しい経験をしました。彼らは自らの中に神さまの力が満ちていくのを感じました。聖書はこう表現しています。
 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」
 (使徒言行録二章一~四節)
 それは周りの者たちが「いったい、これはどういうことなのか」と驚き、戸惑い、怪しむような「まことに不思議な出来事」でした。まさに奇跡的な大事件です。

 この出来事には前提があるのです。「一同が一つになって集まっていた」ということです。しかも彼らは「心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒言行録一章一四節)のです。彼らとは、イエスさまの弟子たちであり、イエスさまの母マリア及びイエスさまの兄弟たちでした。言うなれば、裏切った者と裏切られた者がそこに同席し、しかも「心を合わせて祈って」いたのです。これは彼らを包んでいた十字架のイエスさまによる赦しと慰めを思わなければ、到底理解出来ない事柄です。赦し合うことの出来ない破れた関係にある者が、イエスさまの憐みのもとで、お互いを受け入れ合い、ひたすら心を砕き、祈っているのです。

 ここには対立し混乱したこの世界の希望の先取りがあります。今を生きる私たちの希望の根拠があります。「違い」や「隔たり」を持った者たちが集められ、祈っているのです。謙虚な祈りは真に深いところへと全ての者を導きます。教会というのは、まさにこのような祈りのあるところです。神さまが与えてくださった、神と出会い、人と出会うかけがえのない場です。その交わりの中に身を置き、様々な違いや個性を持ったままで一つにされることを心から望み、祈っているそのただ中にペンテコステの「奇跡」が起こるのです。