教会だより

No.56  2018年3月18日

主は捨てられました

牧師 石田 透

 「ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。」(ルカ二〇章一三~一五節)

 私はこのたとえを読むたびに胸が締め付けられます。イエスさまは確かに捨てられたのです。そのことを承知の上で十字架に向かって歩んで行ったのです。イエスさまの心の中を思うと、私たちの心は張り裂けるばかりです。イエスさまは捨てられたのです。人々に捨てられたのです。ユダに捨てられ、ペトロに捨てられたのです。そして私たちにイエスさまは捨てられたのです。

 人々の歓呼の中、イエスさまは都エルサレムに入城されました。しかし、一週間も経たないうちにイエスさまは人々から拒否され捨てられたのです。弟子の一人であるユダはイエスさまを深く愛していました。しかし結果として彼は主を裏切ってしまいました。彼の中にあったイエスさまへの思いは複雑です。もしかしたらユダは、イエスさまが十字架に架けられるけれども、最後の場面で起死回生の大奇跡を起こすと考えたのかもしれません。でもイエスさまは悲しみの表情を浮かべながら十字架の上で死にました。貴い命を差し出してしまいました。ユダにとってそれは大きな誤算だったのかもしれません。人間は人間を簡単に捨ててしまいます。とても身勝手です。ペトロもそうです。私たちもそうです。主は捨てられたのです。でも人々が捨てたその主に私たちは生かされているのです。何とも皮肉、何とも不思議です。そして何という恩寵でしょうか。それが十字架の主の真実なのです。

 私たちはイエスさまを十字架に追いやった者たちの罪を指摘し、彼らを糾弾します。しかし、実は私たちもその一人ではないのか。そのことを悟りたいと思います。神さまは罪ある存在に対して粘り強く接して下さいました。そして最後にイエスさまを送ってこられたのです。イエスさまを拒んでしまったら、私たちにはもう後がないのです。もう後がないのに、私たちは何と気楽なのでしょうか。今を生きる私たちも、神さまに従いきれないでいる自分を十字架のイエスさまの前に深く反省し、神さまの憐れみと忍耐を感謝しつつ、今こそイエスさまご自身の声に謙虚に耳を傾けなければと思うのです。

 人は人を捨てます。誰かが誰かを捨てます。私たちは捨てる側に立つこともあります。捨てられる者とされることもあります。それは紙一重です。その分岐点はどこにあるのか直ちには分かりません。人とはそういう者です。それが悲しいし、虚しいです。人の世の不条理を思います。

 私たちの救い主イエスさまは人間の悲しみと不条理の一切をその身に引き受けたのです。彼は捨てられる者の悲しみを知っています。捨ててしまう者の弱さも知っています。だからこの方は人を審かないのです。罪を赦すのです。捨てられても、捨てられても、この方は人を赦し続けるのです。この世界は捨てられた人々の犠牲の上に成り立っています。私たちは捨てられたように死んでいった人々の死を忘れてはいけません。その貴い犠牲の上に私たちは新しい世界をつくりだしていかねばならないのです。小さな人々の小さな死を決して忘れてはいけない。十字架の主イエスがそう語ります。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」と語るイエスさまが私たちにそう命じておられるのです。