教会だより

No.55  2017年11月12日

実りの秋に寄せて

牧師 石田 透

 実りの秋となりました。たくさんの恵みをくださる神さまに心から感謝したいと思います。この秋の季節、収穫感謝の祭りは洋の東西を問わず、古くから世界各地で行われてきました。旧約聖書にも古のイスラエルの民が行った収穫感謝の祭りが詳しく記されています。

 今日のキリスト教会における感謝祭は、直接的にはアメリカにおける清教徒(ピューリタン)の習慣を受け継いでいます。1620年9月、メイフラワー号は信教の自由を求める人たちを乗せ、アメリカ東海岸に着きました。しかし、そこは荒れた土地でした。やがて冬となり、飢えと寒さと病いとで多くの者が命を落としました。残った者たちは小屋を建て、荒れた土地を開墾し畑を耕しました。必死な思いで命をつないでいったのです。1年経ち、初めて秋の収穫を得た時、人々は教会に集まり神さまに感謝の礼拝をささげたのです。そして彼らは苦しい時に助けてくれた先住民であるインディアンの友人たちを招き、感謝の食卓を共に囲んだのです。

 以来、収穫感謝の祭りは神さまの恵みを覚える日として、また隣人と共にその恵みを分かち合うことの喜びを覚える日として11月の第四日曜日に守られてきました。17世紀初頭のアメリカの東海岸はとても貧しい時代でしたが、共に分かち合うことに喜びを感ずることができる時代だったのです。時がゆっくり流れていく幸せな時代だったといえるのです。

 物質文明のただ中にある現代はどうでしょうか。物は確かに豊富になりました。しかしおびただしい物質の氾濫によって人間の心やゆとりがどんどん押し流されていってしまうかのようです。秋の一日、友を呼び、いっしょに収穫を喜び合うようなことなど夢であるような時代です。確かに生産性は飛躍的に向上しています。収穫の量は昔に比べ圧倒的に多いでしょう。しかし、収穫を得た時、私たちはそれを恵みとして受け止めているでしょうか。その喜びはどこにいってしまったのでしょうか。わたしたちのこの世界は、分かち合うことの素晴らしさを素朴に味わえないような世界となってしまったのでしょうか。  差別や排除を別の言い方で表現すれば、それは「愛の欠けている状態」「愛の独り占め」と表現することができるかもしれません。では「愛の欠け」とはいったいどこから来るのでしょうか。それは「忙しさ」に関係しているように思えてなりません。自分自身の体験から私はそう思うのです。忙しさは生活の充実どころか、逆に心の中に空白を作ってしまうように思えてならないのです。

 ミヒャエル・エンデが児童文学の傑作「モモ」で描くように、見せかけの効率の良さとは裏腹に、都会の光景は瞬く間に砂漠と化していきます。忙しさに負けて大切なものを見ようとしないならば、そこに心の空白が生じるのです。そのような心には「連帯」や「他者と共に」などという呼びかけは、わずらわしい雑音としてしか聞こえてこないのです。いつも時計を見ては、時間のたつのを気にしている私たちが、小さな子どもたちと共に時を過ごし、子どもの世界の時の流れに身をゆだねる時、私たちは忘れていた大切なことを思い出すのです。