教会だより

No.61  2020年3月22日

私の愛にとどまりなさい

牧師 石田 透

「ぶどうの木」のたとえはヨハネによる福音書だけに出てきます。ヨハネ独特の象徴的な話です。このたとえは最後の晩餐でのイエスさまの洗足の出来事から続いている箇所です。イエスさまは弟子たちといっしょに食事をされました。そこでご自身の十字架の贖いを暗示すると共に、分かち合うことの素晴らしさを表現なさいました。弟子の足を洗うことを通して、弟子たちに対して仕え合うことの大切さを身を以って示されました。そして次にイエスさまがなさったことは熱心に語るということでした。重要なメッセージをイエスさまは語り続けます。

その話の内容は、イエスさまの復活後、そして昇天後の信徒の生活の在り方を念頭においたメッセージです。イエスさまは天にあり、人は地にあるという状況の中で、人はこの世界のただ中で何を目当てに、何を大切に、何を求めて、何を目指して歩んでいったら良いのかが語られていくのです。その地上での困難な旅の途上で、人間を支えるのはまさにイエスさまとのつながりです。イエスさまにしっかりとつながっていることにより、困難な時にも、人間は生きる意味と喜びを見い出し、与えられた人生を力強く歩むことが出来るのです。

イエスさまは、ご自身を「まことのぶどうの木」として位置づけ、イエスさまとの親しい生き方、豊かな交わりを持つことが一人ひとりの生き方にとって決定的に大切なことなのだと告げるのです。私たちは一つの幹につながる枝々のように生命のかよった共同体を形成する一員でもありますが、イエスさまはまず私たち一人ひとりがイエスさまとつながることを求めるのです。私たちは神さまの前にあっては徹底的に「個」なのです。神の前に独りで立つのです。

「つながる」とか「とどまる」という言葉にはいったいどのような意味があるのでしょうか。「つながる」あるいは「とどまる」、特に「とどまる」という表現は一見、静的で停滞を表現する言葉のように感じてしまうかもしれません。しかし、この言葉は実は自分の足もとを見つめながら前進していくという、ダイナミックに生きる姿を表しているのです。この言葉はやがて、「わたしの愛にとどまりなさい」、つまり「わたしの愛のうちにいなさい」と、より具体的に展開されていきます。これはまさに「あなたたちも愛の主体となりなさい」というイエスさまの促しの言葉なのです。愛の奉仕の業を共に担う者となろうというイエスさまの招きの言葉なのです。

私たちは「愛にとどまりなさい」と言うイエスさまの言葉を聞く時、一人ひとりの弟子の足を丁寧に洗ってくださったイエスさまの姿を思い起こします。私たちはそのイエスさまの姿にこそ、豊かに実を結んだ現実を見ることが出来るのです。私たちが生命のかよった幹につながり、人生の豊かな実を結ぶ秘訣はこのイエスさまの姿にあるのです。

私たちはイエスさまの愛の中に、しっかりとつながり、じっくりととどまることによって豊かに生きていくための養分をイエスさまからいただくのです。イエスさまは今も私たち一人ひとりを招いておられます。「わたしにつながっていなさい」と招いておられます。わたしたちは色々なところを彷徨い、ついにイエスさまの御許にたどりついたのです。小さな子どもも若き者も、壮年も、年配の者も、男も女も、皆このイエスさまにつながっています。そこから沢山の恵みと生きていく喜びをこれからも受け取っていきたいと思います。