No.36 2010年4月4日
平和があるように
牧師 石田 透
復活の朝女性たちに告げたように、復活の主イエスはエマオ途上の二人の弟子たちに、又、集結していた弟子たちの前に現れました。イエスさまは彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言いました。そして十字架で傷つけられたその手のひらと脇腹を弟子たちに示したのです。その言葉と行為に感動した弟子たちは、かつてのイエスさまと共にあった日々を再び取り戻すことのできた喜びにみたされたのでした。
ところで、ルカ福音書24章33節に「エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集って」とありますが、これはとても意味の深い表現です。かつてイエスさまは弟子集団の中核を担うべく「十二弟子」を選び出しました。本来ならば「十二人とその仲間」であるはずです。それが今ここに至って「欠け」が生じてしまったのです。イエスさまが天に帰られ、地上の宣教の業がいよいよ弟子たちに託されようとするその時、彼らは「自分たちは欠けている」という現実と向き合わなければならなかったのです。
その「欠け」は、裏切ったユダがそこにはいないということだけを示すのではありません。残された十一人の弟子たちもイエスさまを捨てて逃げ去り、その主の死と引き替えに自らの命を長らえたのでした。ユダの罪と他の弟子たちの罪、彼らは共にあまりに自己中心的でありイエスさまを否定したという点において、両者の間には本質的な相違はないのかもしれません。
信頼していた仲間がイエスさまを裏切ってしまった。重苦しい空気が弟子たちを支配していたことでしょう。しかし「欠けていた」のは、はたしてユダ一人なのだろうか。自分たちはどうなのだろう。自分たちもイエスさまを捨てて逃げ去り、おめおめとガリラヤまで逃げ帰ったではないか。その事実が弟子たちを大いに苦しめました。
そこに主が現れた時の弟子たちの反応。その鈍さ。それは無理からぬことかもしれません。主イエスの前におめおめと姿を現すことのできない無残な自分たち、欠けた我ら。自らが欠け多き弱き罪人であることを彼らはよく知っていたのです。イエスさまは自分たちをとがめるだろう。しかりつけ、また審き、ついには自分たちを罰せられるに違いない。それは大切な人を裏切ってしまった自分たちが受ける当然の報いなのだ。彼らはそう思っていました。
しかし弟子たちのもとにお出でになったイエスさまは彼らの真ん中に立ち、弟子たちに対して、「あなたがたに平和があるように」と告げられるのです。恐れと不安と悔恨の中にある彼らに、主はまず「赦しと平安」を与えられるのです。「欠けたる」者たちに、イエスさまは「赦しと希望と平和」を携え、臨んでくださるのです。そして、戸惑い、なかなかそのことを理解できない弟子たちに、主はなりふり構わずその手足を差し出し、焼いた魚をほおばりうまそうに食べてみせるのでした。
そこには「欠けたる」者に大いなる愛を注ぎ、どこまでもその者たちの弱さに寄り添おうとされるイエスさまがおられます。その主の愛によって「欠けたる」者たちの群れは力づけられ、新たなる歩みを始めることができたのです。私たちもその喜びを新たにしたいと思います。この「欠けた存在」である私たちも、主によって希望あふれるよみがえりの日々を生きることができるのです。