No.65 2021年7月11日
造りし者と造られし者
牧師 石田 透
多くの者が罪を露わにし、自分勝手に生きる者がほとんどであった時代にあって、ヨブは義しい人、義人であると人々から尊敬されていました。人間の世界ではヨブのような生き方は極めて例外的です。その義人ヨブが家族を失い、財産も失い、友も失い、自らも重い病を負うようになります。ヨブは思い煩い、苦しみ抜きます。ヨブは自分の苦しみが故なくして与えられたものであることにさらに苦しんでいきます。しかし彼の三人の友は、人が苦しむのはその人の犯した罪の結果であると主張し、自分を義とするヨブの態度を非難します。でもヨブは自分が罪を犯した心当たりなどないのです。彼は悩み、憤ります。信頼していた友の口撃を受け、ヨブは孤立し、ますます態度を硬化していきます。一人また一人と彼から離反し、どうしようもなくなったヨブは神に向かって自分のこの定めは一体何故かと激しく問うのです。
そのヨブに対し、神は嵐の中からお答えになります。聖書は、神がしばしば嵐の中でご自身を現されたことを記します。考えてみると、嵐に遭遇するとき、人間は自分の弱さをいやというほどに思い知らされるのです。台風、水害、大雪、地震。人は自然の猛威にさらされる時、自分の弱さや小ささに気付きます。人はその時初めて本当の自分に出会い、自分の正体を見るのです。そしてその時同時に、人間は神の真実の声を聞きとるのです。
ヨブは自分に対する神の不当を訴えました。ヨブはそのように主張する自分が実は深い所で神に守られていたことに気付かないのです。あたかも自分一人で生まれ、一人で大きくなり、一人で生きているかのように思い上がっていたのです。そういうヨブに対して、神は自分がどのような者であるかを気づかせようとして嵐の中から語られました。
「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。わたしが大地を据えた時、お前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。…」(ヨブ記三八章二節以下)
ヨブの問いに対する神の答えです。でもそれは直接的な答えではなく、答えにならない答えをもって神はヨブに答えます。ヨブの全身を貫いた神の言葉が、今も私たちの心と魂を貫きます。
神は全てを成し遂げました。一方私たち人間は何も為しえていないのです。何も知らない。何もしていない。何も出来ない。それなのに私たちは傲慢にも神の如くに振る舞い、神の如くに一方的に他者をそして神を裁くのです。
ヨブは戸惑いの中にありました。私たちも同じ質の戸惑いを持ちます。自らが幾度も経験する人生の不可解な現実を神に問うても、その解答は肩透かしを食らわされるようなものです。もどかしさを覚え、疲れ、さらには憤りさえ覚えます。しかし、私たちはまさにそのところで、私たちの弱さ、小ささと出会います。そして、それにも拘らず私たちを赦し、愛し、生かしてくださる神の愛に出会うのです。
神は創造のみ業をヨブに語り、圧倒的な力をヨブに突き付けました。ヨブはただ黙って聞き、その中で自分が神の大きな愛の中に生かされていたことを知ったのです。神の創造の業を思うとき、神の声を心から聞こうとするとき、私たちは自分の存在がいかに小さく弱く、ささやかであるかを知ります。さらに本当にちっぽけな存在ではあるけれども、自分に悩み、くよくよしなくともよいと励まされるのです。その経験の全てが恵みであり、私たちの喜びとなるのです。