No.39 2011年4月24日
弟子たちとペトロに
牧師 石田 透
週の初めの日、イエスさまが十字架で死なれてから三日目の朝ごく早くに、女性たちはその亡骸を納めた墓に向かいました。彼女たちはイエスさまの十字架の死を見届け、葬りにも立ち会いました。しかし、そこにはペトロを初めとする男の弟子たちの姿はありませんでした。それぞれにイエスさまとの喜びの出会いを経験し、心動かされ、イエスさまと共に歩み、喜びも悲しみも共にしていたはずの弟子たちの姿はそこにはなかったのです。彼らは、「イエスを見捨てて、逃げてしまった。」(マルコ14:50)のです。彼らはいったいどこにいったのでしょうか。恐れと後悔と挫折の念を抱き、彼らは闇の中で人知れず涙しているのでしょうか。
悲しみを携えて墓に向かった女性たちは不思議な体験をします。入口を閉ざしていた石はわきに転がされ、その傍らには白い長い衣を着た一人の若者が立っていました。それは復活のイエスさまでした。イエスさまは女性たちに、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」と告げ、彼女たちに前に向かって進むことを促します。そして、さらにこう言われたのです。「弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
不思議な言い回しです。ペトロも弟子の一人であるのに、「弟子たちとペトロに」とイエスさまは言われます。その真意は何でしょうか。イエスさまは「弟子たち、とりわけペトロに」という思いでそう言ったのでした。復活したイエスさまは弟子たちを裁こうとは思っていません。己の弱さや愚かさに破れ、挫折した弟子たちを赦し、もう一度呼び出し、立ち上げるためにイエスさまは弟子たちの前に現れるのです。その力強い言葉はちりぢりになった弟子たちに伝えられなければなりません。とりわけ三度繰り返してイエスさまを否認し、十字架の痛みと苦しみを共に担うことができなかったあのペトロに、イエスさまをことのほか愛し従っていこうとしつつもくずおれていったあのペトロに、今最も悲しみと苦しみの中に置かれているあのペトロにそのメッセージは伝えられなければならなかったのです。
私たちにもその力強い復活の言葉、福音が告げられています。今、困難の中に在り、慰めを必要としている全ての者に、この復活のメッセージが告げられているのです。
私たちは無力です。私たちの手の内には何もないに等しいのです。でも見えないけれど共に歩み、支えてくださる方がいるのです。その方に在って苦しみの中でも希望は揺るがないということ、むしろ困難の中に在って希望は確かなものになることを心から信じます。イエスさまが今も新たに私たちを招き、赦し、用いようとされるそのメッセージを感謝して受け取っていきたいと思います。