教会だより

No.44  2013年3月

主イエスの十字架 わがためなり

牧師 石田 透

丘の上の 主の十字架
苦しみのしるしよ
人の罪を 主は身に負い
与えたもう いのちを
荒削りの 主の十字架
限りなく貴とし
我を赦し 清くするは
ただ主の血潮のみ

(讃美歌21の303)

 最後の晩餐からゲッセマネの祈りに続き、その後に起った出来事はめまぐるしいばかりです。福音書の記者たちは、一言も書き漏らすまいとするかのように事細かに記述します。三十才までのイエスさまの生涯をほんの数行、あるいは数ページで片付けてしまう福音書記者たちが、この最後の数時間のためには、何百行も用いても足りないといったおもむきで、熱心に綴るのです。

 ユダの先導でやってきた兵卒たちによる捕縛。そしてユダの裏切りの接吻。その後のでっちあげの裁判。無責任なたらいまわしが始まっていきます。大祭司アンナスからカイアファに回され(そこでペトロの三度の否認があります。)、真夜中に議会が極秘に召集され、イエスさまは総督ピラトとヘロデの間を往復させられた後、ついに死刑の判決が下されるのです。自らが架けられる十字架を背負ったイエスさまはヴィア・ドロローサ(悲しみの道)を幾度も倒れながら進まれます。キレネ人シモンが無理やり引き出されて十字架を背負わされ、シオンの娘たちが泣き崩れ、血に飢えた群集がわめき叫ぶ中を、イエスさまはゴルゴダの丘へと進まれるのです。

 主イエス・キリストを救い主と信じ、教会に集う私たちはこのキリストの足跡をたどりながら、苦難を思う日々を歩むように示されています。この数時間の主の苦難というものは、それが神さまの聖旨だとしても理解しがたいほどの痛ましさです。それを神の恩寵(恵み)と感じるよりは、なぜそれほどまでにと悲しみと戸惑いとを覚えるのです。しかし私たちは救世軍創始者のブース大将が見たという夢の話を聞くと、そうであったかと自分自身の罪を深く思うのです。

 「キリストが釘付けられた十字架の目の前に自分が立たされている。その苦しみを見るに忍びない。何とかしてお助けしたいと思うのですが、夢の常として足が進まない。いらいらしている時、一人の小柄な男がはしごをかついで十字架のところに行き、それを上っていったので、『ああよかった。救いにいった人がいた』と思ったら、その男はやにわに脇から金づちを取って釘が抜けないように更に打ち込んだのです。そして振り向いてニヤッと笑ったその男の顔を見ると、何とそれは自分の顔だったのです。」

 イエスさまが苦難を受け、十字架に架かられたのは神さまのご計画であったとしても、やはりその主イエス・キリストの十字架はこの私の罪の赦しのために立てられたのです。神さまに向かって心打ち砕かれてひたすらに祈りつづけたい、イエスさまに心より赦しを請いたいと強く思うのです。