主日礼拝|今週のみことば

主日礼拝説教(2021.11.28)


「主の来臨の希望」 石田 透


イザヤ書51:4-11


 「いずこの家にも、めでたき音ずれ、伝うるためとて、天よりくだりぬ」というマルティン・ルターが作ったクリスマスの讃美歌があります。54年版讃美歌の101番です。讃美歌21にも246番として収められていますが、歌詞がだいぶ変わっています。
 「いずこの家にも、めでたき音ずれ、伝うるためとて、天よりくだりぬ」。これがまさにクリスマスの喜びの内実だと思います。イエスさまのお誕生は、「いずこの家にとっても、めでたき音ずれ」なのです。その「よき音ずれを伝えるために天からの使者がくだるのです」私たちはそのことを心からの感謝をもって受け入れたいと思います。
 徴税人ザアカイもこの知らせを聞きました。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」という人々の批判に対して、イエスさま自らがこのように宣言しました。
 「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:9-10)
 アドベント・クランツの一本目に火が灯されました。このローソクの光りは始まりのしるしです。正義と希望の時、主イエス・キリストの時がすでに始まったことを、このローソクの光りは私たちに告げているのです。
 私たちが生きているこの現実の世界は未だに不正義がはびこり、多くの人々が苦しみの中にあってあえいでいます。小さな命が危険にさらされ、悲しみの中にある者は涙を流しています。嘆き悲しむ者を待っているのは絶望しかないのでしょうか。疑いや不信仰、争いや暴力に満ちているのが私たちのこの世界の現実です。まさに闇と言っても言い過ぎではないような現実の中に私たちは生きています。そんな中で私たちは無力な姿をさらします。私たちは自分のことだけで精一杯です。そのような私たちに聖書は「主の来臨の希望」を語ります。暗闇の中で苦しむ私たちに「主の来臨の希望」を語ります。「主が再び来てくださる」という希望です。二千年前、救い主イエスさまは小さな赤ちゃんの姿でこの世界に来られました。苦しむ人々の重荷を担い、悲しむ人々と共に涙を流し、名もない人々の小さな喜びをご自分の喜びとしてくださいました。そのように生きることが神さまのみ旨であることをイエスさまは示されました。イエスさまはその生涯と死を通して神さまの愛を私たちに伝えたのです。そして今日私たちはその御子イエスさまのご降誕を告げるアドベントの時を迎えました。アドベントは単にイエスさまのお誕生の準備期間ではありません。主が再び来てくださるということを待ち望む時です。主の祈りで祈るように「主よ、御国を来たらせ給え」と心の底から祈り求めることでアドベントを始めていきたいと思います。
 かつてイスラエルが経験した厳しい闇の時代、バビロニアで囚われの民となっていたユダヤの人々に、神さまは預言者イザヤの口を通して語りました。
 「主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に、わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ、わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき、わたしの腕を待ち望む。」(51:3-5)
 ユダヤの人々はまことに厳しい逆境の中、苦難の日々を生きていました。その過酷な現実は彼らの心を重く支配しました。しかし神さまはその苦難のただ中にあって救いの近いことを宣言されるのです。そして「遠い昔の日々」(9節)のあの救いの出来事を思い起こし、希望を持ち続けなさいと励ますのです。
 「遠い昔の日々」(9節)とは「海を、大いなる淵の水を、干上がらせ、深い海の底に道を開いて、贖われた人々を通らせた」(10節)という出エジプトの出来事です。奴隷として甘んじて苦役を受けていたユダヤの民は、神さまから遣わされたモーセに導かれてエジプトからの脱出を果たしました。預言者イザヤはその解放の出来事を苦難のただ中にある人々に改めて語ります。神の約束が果たされたかつての苦難の日々を語ります。あの時、神さまは確かにユダヤの民を救いだしてくださったのだ。神さまは今も、そして後もそのようなお方であり続ける。イザヤはそう語るのです。かつて絶望の民に希望を与え、約束の地に導き入れた主は、今もなお、あなた方を救おうとされているのだとイザヤは語るのです。

 今日からアドベントです。クリスマスはやがてやってきます。今年、私たちはクリスマスをどのように迎えようとしているのでしょうか。家族や友人と楽しく過ごして、親しい者同士、お互いの心を温め合う。家族や友人同士でそのように過ごせたら本当に幸せなことです。でも、寒い家畜小屋の中で眠るイエスさまの姿は私たちに何を語るのでしょうか。飼い葉桶から十字架へと歩んだイエスさまの生きざまは私たちに何を語るのでしょうか。イエスさまの眼差しはいったいどこに向けられていたのでしょうか。そのような思いを抜きにしてクリスマスを迎えることは出来ないのです。
 クリスマスは遥か遠い二千年前の異国の出来事です。私たちとは無関係の人々の間に起こった外国の田舎町での小さな出来事です。それが果たして私たちの希望となりうるのだろうか。そんな疑問を抱かせるようなまことにささやかな出来事でした。
 しかし、耳を澄ませ、心を開いてみましょう。かつての出エジプトの出来事、バビロニアからの解放の出来事を思い起こしてみましょう。そして今も世界の各地で苦しみに泣きさけび、正義と解放を求める人々がいることを思い起こしてみましょう。喜びの訪れを心待ちにしている人が確かにいることを思い起こしてみましょう。クリスマスの出来事はまさにそのような人々の出来事なのです。そのような人々のために神さまが実現してくださった出来事なのです。
 では私たちはどうなのだろうかと今一度自らに問うてみたいと思います。私たちは本当に心満たされているのだろうかと今一度自らに問うてみたいと思います。私たちはこの世の中にあって真面目に一生懸命に生きています。このように教会の交わりにも招かれて感謝のうちに礼拝を守ることが赦されています。そのことに平安と幸いを感じます。でも本当にそれだけでよいのでしょうか。世界の全ての人々の救いが神さまの御心であるならば、私たちはまことに微力であったとしても、その働きに参与していくことが私たちの大いなる喜びとなる。そう思うのです。そして苦難の中にある人々の叫びの中に主イエス・キリストの私たちへの促しの声を聞き取っていきたいと思うのです。
 ザアカイは「今日この家に救いが来た」とイエスさまから宣言され、心から喜びました。私たちの家にも救いが来たことを私たちは喜びたいと思います。同時にこの喜びをたくさんの方々にお分けしたい、伝えていきたいと思うのです。主は全ての者の本当の救いのため来られたのですから。
 主イエス・キリストがきてくださることを待ち望みましょう。主を待ち望むということは、主イエスによって神の正義が成就することを信じるということです。アドベントをもって教会の一年が始まりました。この始まりのしるしであるローソクの火を見つめながら、私たちは祈りを捧げましょう。それは「主よ、御国を来たらせ給え」という祈りです。世界は本当にイエスさまを必要としています。今こそ、この世界全体のために、すべての人々のために、何よりも自分自身のために、「主よ、御国を来たらせ給え」と祈り求めていきたいと思います。