主日礼拝|今週のみことば




主日礼拝説教(2023.01.29)


「新しい神殿」井殿謙


ルカによる福音書21.1-9


 どうして人は、新年に神社を訪れるのでしょうか。やはり、そこに神がいるということを信じて、神社に訪れているのだと思います。その年の自分の目標や、家族や大切な人のためを思いつつ、それを神様に聞いてもらうために、その神が祀られている神社に訪れる、ということです。それでは、私たちはどうでしょうか。イエス様が私たちに教えてくださった神様は、どうでしょうか。主の祈りでは、「天にまします我らの父」と言われています。そう考えると、神様の場所は、どこかの県のここの山、というわけではなく、「天」であります。私たちは、教会に集う時はもちろん、家にいながらも、神様に呼びかけ、祈ることができます。病気で入院をしている方や、教会に集いたいと願ってもそれが叶わない方、そんな人たちの声や祈りを、私たちの神様は聞き入れてくださっています。病の床にあっても、私たちは神様に呼びかけ、祈ることができます。
 私たちの神様の場所がどこであるのか。ということについて考えながら聖書を読んでいくと、色々複雑なことに気付かされます。それを示しているのが、本日お読みしたルカ福音所でも言及されていた「神殿」であります。聖書に記されているイエス様の時代、エルサレムに神殿がありましたけれども、そこでも「賽銭箱」のようなものがあったそうです。人々は、お祭りなどの際に、各地から神殿を訪れて、献げものをして、罪の赦しを願っていました。そのようにして祭りに加わることによって、初詣と同じように、一年に区切りをつけてそれを味わうと言ったこともあったのではないかと考えられます。そう考えると、当時の神殿も日本の神社と同じようなものだったのではないかと思われます。しかし、神社と違うところとして、神殿はエルサレムにあった、ということがあります。
 神殿の歴史を少し見てみたいと思います。紀元前1000年頃、ダビデがエルサレムの町を王国の首都に定めて、その後、ソロモンの時代に、エルサレムに最初の神殿が建築されました。この神殿の建築が終わった時に、ソロモンが神殿で捧げた祈りが、聖書には記されています。
「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを聴いてください。‥‥ここはあなたが『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。このところに向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください」
ここには、神殿に関する対立した考え方が示されています。一方では神は神殿に住むはずがない、そう言いつつ、その住まいとして、大変な労力や資金を使って神殿の建築が行われた、ということです。エルサレムを王国の首都とし、その力によって、多くの労力と多くの資金を使って、神殿を建築した。けれども、神はこの地上にも、天にも入ることができないほどの大きな方であり、自分たちの神殿の中に閉じ込めるようなことは許されない、ということです。
 イスラエルの神は、アブラハムをカナンの地へと移住させ、シナイ半島でモーセに現れ、エジプトで力を示して、イスラエルの民を奴隷から解放して、再びカナンの地へと導きました。これらのことが示すことは、イスラエルの神は、そもそも定まった場所を必要としない、ということであります。カナンの地に定住することを許されて、王国の建設までしたそのところで、どこにでも移動できる神がイスラエルにいることにしるしとして、神殿が作られました。しかし、その神殿は、バビロニアとの戦争の結果破壊されることとなってしまいます。国が滅びて、その象徴としての神殿も焼き払われてしまいます。通常であれば、その神殿に祀られていた神も同時に消滅してしまうように思います。しかしながら、イスラエルの神は、かつてエジプトから先祖を救い出した神であり、神殿に住むものではありません。この出来事によって逆に生命を取り戻したように、囚われの地であるバビロンにあっても、イスラエルの人々の祈りを聞き届けられました。捕囚が終わったのち、再びエルサレムに神殿が建築されます。これにより、祭儀が整えられ、神殿と律法を中心とするユダヤ教が成立していきます。ここからようやくイエス様の時代に繋がっていきます。ヘロデ大王が、神殿のリニューアルの作業を始めていきました。紀元前19年頃から始まり、最終的に完成したのが紀元64年と言われています。つまり80年以上改修の工事が続いていたわけですけれども、イエス様が生まれて活動し、十字架での出来事の後復活する、という生涯は、この神殿の改修の最中ということになります。今日の聖書箇所には、神殿を見た「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していた」と記されていました。その神殿は見る人々を感動させるようなものであったということがわかります。しかし、この神殿も長くは持たず、紀元70年に、ローマ軍がエルサレムを包囲して攻撃して、神殿にも火が放たれて瓦礫となってしまいます。
 イエスの活動は、そのような神殿と密接に関係するものでありました。神殿に行かなければ祈りを捧げたり、罪の赦しを願うことができない人々に対して、イエスは自分から歩み寄って言って、罪の赦しを告げていきます。病に苦しむ人や、社会から虐げられていた人、差別により神殿から遠ざけられた人たちに、イエス様は歩み寄っていかれました。また、福音書には他にも、祈りの家であるはずの神殿が強盗の巣になっていることに怒り、そこで商売する人たちを追い出すイエスの姿も描かれています。
 そして、そんなイエスの歩みも終盤、ルカ福音書21章が今日の聖書箇所でありました。1節から4節には「やもめの献金」の物語が記されています。恐らくヘロデ王の壮麗な神殿のために、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのに対して、貧しいやもめが銅貨2枚を入れる、という話です。イエスはそのやもめの信仰を良いものであると評価していました。自分が持っている全てを捧げた貧しいやもめの信仰です。貧しい中で、神にのみ信頼をおいて生きる彼女の中にこそ、信仰者の模範的な姿があるということをここで語られています。続く5節からは、神殿の見事な石と奉納物で飾られているのを褒め称える人たちに対して、その「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と、神殿の無意味さを説いています。私たちに「天にまします我らの父」を教えて下さった主の祈りに現れている通り、イエスはそのような宗教の枠を越えて働く神の真の姿を示そうと語られています。
 今の私たち、見えるものを失ってしまう時、どうしても絶望しないではいられません。大きな災害や戦争によって、崩れ去った街を見る時、大きな絶望に見舞われます。それは避けようがないことかもしれません。しかし、しっかりと神に繋がって、何よりも神様が1番大切である、と信じて生きる人は、その中でも希望が見出せるのではないかと思うのです。たとえ、一文なしになっても動じない、自分のもつ全てを捧げたあのやもめが、まさにそうでありました。私たち、大切なものが崩れ去るのを見た時、夢破れたり、愛するものを失う中で、絶望に打ちひしがれる時があります。しかし、それでも、私たちには神様がいてくださる。神様を信じて、神様に救いを求め御声に耳を傾け、神様を見上げるとき、私たちの心は強められます。満たされていきます。立派な建物や煌びやかな飾りが大切なのではありません。何よりも大切なのは、神様を信じること、神様を仰いでいくことであります。そのことを通して、輝く希望の内に歩んでいきたいと思うのです。
 最後に、神殿について、そしてイエス様が教えてくださった神の姿について、語られている聖書の御言葉を読みたいと思います。第一コリント3章16節です。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」このようなパウロの言葉です。イエス様が示してくださった「新しい神殿」神様の姿はこの言葉に表されていると思います。私たち、神様がいつも一緒にいてくださる幸いに感謝しつつ、希望を持ってこれからも歩んでいきたい、そう思うのです。