聖霊降臨節第10主日礼拝 説教(2026.7.26)
「わたしの名のために」 マルコによる福音書 9章33節-37節
木村 拓己 牧師
イエスが十字架への道を歩もうとする時、弟子たちは誰が一番偉いかを話し合っていました。12人は集められて本当に大切なことをイエスから聞きます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と。
仕える相手には子どもまで含むのだとイエスは語ります。当時、子どもは価値ある存在として認められていませんでした。子どもは他者に何かを与えるよりも求めることの多い存在とされ、この文脈で言えば、すべての人に仕えることのできない存在として「子ども」が取り上げられています。
ある年齢になれば幼稚園に行く、学校に行くようになったのは近代になってからのことです。 それまでは「小さな大人」として、家業や家事を手伝うことを通して一人前になることが求められました。産業革命を通じて児童労働の問題、第一次世界大戦を通じて孤児の問題が表面化した20世紀、当時の国際連盟がジュネーブ宣言を発表します。世界で初めての子どもの権利に関する公文書です。第二次世界大戦後には「世界人権宣言」を発表されます。
イエスの十字架がそうであったように、世界が大きく変わっていく時、それまで見過ごされていた世の小さな存在が可視化される歴史を私たちは歩んできたということではないでしょうか。2000年以上も前にイエスが権利の根幹となる言葉を語り、周囲に求めたのは非常に大きな意味を持っていたと思うのです。しかしその場で受け止めることができる人も社会もなかったのでした。
イザヤ書53章には「苦難の僕」と呼ばれる預言があります。2節に出てくる「この人」という言葉は、ギリシャ語訳では「子ども」という言葉が使われています。キリストが背負った痛みが預言される箇所ですが、社会で抑圧される人がすべての人の僕とされている現実がそのまま当てはまる預言であるとも言えます。そしてこの受難の預言こそがキリストの十字架の死と復活の成就であると解釈されて、その子どもとは「御子」であったと表現されるのです。
今日の聖書も、目の前の子どもを見つめると同時に、御子イエス・キリストを受け入れることが重ねられています。さらに言えば、今日の聖書に出てくる子どもとは、さらに小さな乳飲み子や幼児を意味する言葉が使われています。
当時幼児は女性が家で面倒を見る存在であって、男性を中心とする社会では全く顧みられることのない存在でした。教会という家になってからも同じです。シスターやディアコニッセのように、近代に至るまで、他の人の面倒を見る働きの多くは女性の役割とされてきましたし、教会もまたいつの時代も女性にその役割を求めてきたのではないでしょうか。
ある意味でそれらをすべて否定するように、今日のイエスは教えているように思うのです。イエスは社会からは見えない存在とされる幼児の手をとって真ん中に立たせ、抱き上げました。教会という家に連なる一人として、あなたにも世から見えなくされた一人を受け入れる者であってほしいと、イエスに招かれているのではないでしょうか。
弟子たちはイエスに教えられ、このままイエスと生きていきたいと心から願ったことでしょう。しかし「主に従うことはなんてうれしいことだ」と心から喜んでいたところから一転して、主に従うことなど私にはできないと思わされる十字架へと続いていくのです。
「主に従うことは自分たちが心地良くなるための生き方ではない」と、弟子たちははっきりと認識させられるのです。イエスという方はすべての人に仕える方だったのだということに弟子たちは気づかされるのです。その気づきが与えられた時にこそ、今日の聖書が一層響くのです。
誰もが先を目指すからそこは人の多い場所となり、争う場所となり、傷つく場所となる。他者を愛すことが難しい場所となるのです。他者を愛するために、あなたが愛する人となるために、後ろを目指しなさいとイエスは語るのです。
私たちには主の家という帰る居場所があります。それは自分だけの家ではありません。すべての人に対して御手を広げて主が迎える家です。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
このところで、私たちは神に出会い、今日を生きる上で必要な言葉が与えられ、気づきが与えられる一人でありたいと願います。そしてその一人を見つけて仕えた時、あなたは心からイエスをお遣わしになった方を受け入れたのだとイエスが語られた言葉を心に思い起こしましょう。
