主日礼拝|今週のみことば

主日礼拝説教(2021.7.18)

「憐みの神の選び」 石田 透

ローマの信徒への手紙9:19-28


 他の人と比較して、どんなに人間的に優れた存在であったとしても、神さまの前では完全な人など一人もいません。人は自分の行いに拠っては、誰一人として神の前にあって義人とはされないのです。そのような不完全で罪の存在である人間が、神に義とされるにはイエス・キリストの十字架が必要であり、主イエスの十字架の故に全ての人は赦されたと言うのがパウロの福音理解でした。

 パウロはローマの信徒への手紙の中で、キリスト教信仰について確信をもって力強く語ります。「人が義とされるのは律法の行いに拠るのではない。信仰によるのである。神の憐みによるのである。」さらに「信仰による義人は生きる」と宣言します。彼のこの宣言は全ての人に当てはまるのです。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、善人であれ、そうでない人であれ、それは問題ではありません。パウロに言わせれば人はみな罪人です。そしてどんな人も神による救いの対象なのです。

 その時、問題となるのが「選び」と言うことです。神の恵みが全ての人に及んできたのであれば、ユダヤ人だけが神に選ばれたというのは、おかしいと言うことになります。また、パウロが「律法ではなく信仰だ」と語り、救いはユダヤ人も異邦人も分け隔てのないものであると主張した時、パウロはユダヤ人でありながらユダヤの同胞に対する愛を失っていると批判する人も出てきました。今日の聖書箇所の9章はそのことに対するパウロの弁明です。もう一度申し上げますが、これは実に「選び」の問題です。「選ばれたことの意味」の問題です。ここで私たちが選びということを考えて行くとき、忘れてはならないことがあります。それは「私が選ばれた」というその事実から出発しなければならないと言うことです。他でもないこの「私」が選ばれたのです。ではこの「私」はどのような存在なのでしょうか。もし仮に私たちが、この私は神の選びにふさわしい存在であると自負しているのだとするならば、私たちの信仰は危ういと言うことです。そうあってはならないのです。大切なことは、自分のような本当にちっぽけな者を神さまが選んでくださったのは、神さまの自由な意思であるとともに、それはまさに神さまの一方的な憐みによるのだと言うことを私たちが知ることです。もし神さまがこの私を憐れんでくださらなければ、この私は神さまに選ばれることはなかったのです。

 この手紙を書いたパウロはまさに自分の体験からそのことを強く訴えるのです。パウロはダマスコ途上に於いて、なぜあのような鮮やかな回心を遂げることが出来たのでしょうか。色々な理由が考えられますが、その一つとして、パウロがキリスト教徒を迫害していたのは、彼が律法による行いによって救われようと一生懸命努力していた結果であったと言うことが出来ます。律法はイスラエルの民に示された、人々が神に在ってよりよく生きる為の人生の指南書です。真面目なパウロはその律法を自らの生き様の拠り所としていました。律法に従い、彼は一生懸命に生きたのです。でもその教えに励めば励むほど、律法の示す高みからは全くもって遠い自分の現実に苦しむことになります。彼は心底絶望しました。でも絶望しても尚、パウロは、自分はもはやそうするしかないのだとやみくもになって、自らを高めようと必死になって生きていったのです。

 パウロはイエスさまが人間はありのままに生きてよいのだと人々に優しく語り、罪人と言われていた人たちと親しく交流していたことを根拠に、イエスさまの弟子たちを迫害しました。自分は苦しみもがきながら必死になって真理を求めて生きているのに、そんなに簡単に人は罪人でも良いのだと言うのは許せないと彼は思ったのです。そんな生真面目なパウロは自分の中には救われる要素は何もないと思い詰め、絶望します。そしてあのダマスコ途上でついに光を失い地に倒れます。彼にとって、倒れ、光を失うことは自らが病いを得た者、欠けた状態の者、つまり律法で言うところの罪人であることを自覚する経験となりました。しかしそれで彼の物語が終わりを告げたのではないのです。イエスさまが彼に救いの御手を差し伸べるのです。苦しみ倒れているパウロに、復活のイエスさまが臨まれるのです。パウロにとって新たな物語の始まりです。新しい人生の始まりです。彼に新たな光、生きる指針としての主イエスが与えられ、パウロは主の導きによって生き直しを始めて行くのです。パウロはこの経験を通して、人が義とされるのは律法による行いではなく、神さまからの一方的な恵みによるのだ。まさに信仰によることを知らされていくのです。パウロは自分自身の罪の自覚、罪の認識を通して、神の恵みを知らされていきました。人はマイナスの経験を通して、本当のプラスの生き方を知らされるのです。私たちは、自分は罪人であるという動かすことの出来ない事実、現実を直視しなければなりません。私たちが罪人であることは決してぬぐい去ることは出来ないのです。それがこの私の現実です。でもそれで終わりではありません。そこから私たちの新たな人生の物語が始まって行くのです。

 イエスさまは私たちに向かって、さらには全ての悩める者、罪ある者、病気で苦しむ者に向かって、「子よ、あなたの罪は赦された」と宣言されました。それはイエスさまが、全ての苦しみ悲しむ者の罪を引き受け、またその命を担ってくださったからこそ、語り得た言葉です。イエスさまが私たちの重荷の全てを引き受けてくださった。そこに私たちの希望の根拠があるのです。

 四人の漁師たちの次に12弟子の一人となった徴税人レビ(マタイ)は、神の言葉など聞いて何になるか、そんなことはばかばかしいと思っていました。彼にとっては現実の生活の方がずっと大事だったのです。しかし、そんな不遜なレビにイエスさまが声をかけます。「わたしに従いなさい」と声をかけます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と声をかけます。その招きの言葉がレビにとっては大いなる喜びとなりました。これは神さまの憐み以外の何ものでもありません。神さまの招きと選びは私たちの思いを超えています。本当に小さな存在を神さまは愛してくださり、用いてくださるのです。神の恵みは全ての者にもたらされるのです。

 私たちはクリスマスに「いま来たりませ、救いの主イエス、この世の罪を贖うために」と歌います。この原曲はルターによる「今来りませ、異邦人の救い主よ」という宗教改革のコラールです。つまり私たちはそもそもが異邦人なのです。神から遠い存在であった異邦人なのです。私たちは最初から神さまの近くにいたのではありません。遠いところにいた私たち一人一人を神さまご自身が引き寄せ、近い者としてくださったのです。

 「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。」(ローマ9:25)

 神さまが私たちを神さまの近くへと招いてくださいます。感謝して共に歩みましょう。