主日礼拝|今週のみことば


主日礼拝説教(2024.4.7)


「あなた方に平和があるように」 木村拓己


ヨハネ20:19~31


 3月の朝日新聞「折々のことば」で、「もれる・こぼれる・あふれる」という言葉が扱われていました。お話としては植物に焦点を当てられていました。自然界では、光合成で生じたブドウ糖が根っこから土に漏れることによって、そこに微生物が集まって土が耕され、豊かさが分かち合われて全体が生かされるのだそうです。
 現代は、さまざまな形で豊かさと対極にある乏しさへと向かっています。たくさんある時にはみんなが優しくなれたけれど、乏しくなってくると自分の分を我先にと確保するようになって、自分のやり方以外を認めなくなり、互いに認め合うことができなくなっている現実に気付かされます。
 復活のイエスに会う直前、弟子たちはユダヤ人を恐れ、家の戸に鍵をかけていました。イエスが十字架にかけられただけでなく、その墓さえも暴かれた現実を前に、もはやユダヤ人の敵である自分たちの居場所などない、赦されていない社会に彼らは身を置いていたのです。
 そんな弟子たちの真ん中に復活の主は立ち、「あなたがたに平和があるように」と語りかけます。
 続いてトマスの物語もあります。十字架の釘跡と脇腹にぐりぐりと指を突っ込まないと信じられないと語るトマスは嫌いではありません。実際に口にするかどうかは別にしても、「私ならこうするのに、ああすればいいのに。」と一歩引いたところから、よく思うのではないでしょうか。
 ついにトマスのもとに復活のイエスが現れ、ぐりぐりと自分から手にわき腹にと、指を突っ込むチャンスがやってきました。しかもイエスご自身がその裂かれた体を示し、指を入れなさいと告げるのです。顔を覆わずにはいられないような、厚顔無恥だったと思わされた瞬間だったでしょうか。
 それまで築いてきた、自分が最も納得できる方法で、「自分で自分の信仰を選ぶ」というような価値観ではなかったのです。神が自分の前に立っておられ、いつもそこにおられたのだ、自分の思いを受け入れていてくださったのだとトマスは気付かされたのではないでしょうか。
 イエスが二度重ねた言葉。主の平和へと私たちは招かれています。神は御自分の完全さによってではなく、この世の現実において、イエスを通して弱さや痛みによって、その打たれた傷によって、私たちと共におられることを示されたのでした。
 先週のマグダラのマリアの「わたしは見た」という告白に始まり、「わたしたちは見た」という信仰告白へと繋がっていく物語を読みました。一人が信仰を抱き、同時にみんなが一つの信仰を抱き、共に歩んでいこうとする教会として、ペンテコステへとつながっていきます。
 新年度、新しいこと、変わっていくことがたくさんあります。本日から礼拝式順も少し変わりました。新たな役員4名も選ばれました。また礼拝当番では、礼拝受付はこれまで男性が担当することがなかったようですが、今後は男女問わず、お願いすることとしました。新しい体制の中で歩もうとするこの年度は、原宿教会創立120周年を迎えるこの年度は、変化の多い年度になるのかなと想像します。だからこそ、教会と幼稚園は、変わっていくことを「ためらわずに一緒に行きなさい」との年間聖句に支えられて歩んでいきたいと思うのです。
 それは、役員だけ、CSスタッフだけ、幼稚園教職員だけが頑張る道ではないのだと思うのです。原宿教会と原宿幼稚園に連なるみなさんの助けがなければ、自分にできる何かを見出しながら、「私たちの教会は私たちの手で整えていく」ことをみんなで確認しなければ、しっかりと歩んでいくことはできないのだと思うのです。
 原宿教会と原宿幼稚園は、きっともれるような、こぼれるような、あふれるような豊かな恵みに満ちていることと思います。それが一人を支え、全体を生かすのです。多くの方の顔が見えるような新しい一年間へとここからみなさんと出かけていきたいと思います。「あなたがたに平和があるように」と招く復活の主に支えられて、ためらわずに一緒に歩んでいきましょう。