主日礼拝|今週のみことば


主日礼拝説教(2024.7.21)


「兄弟を滅ぼしてはならない」木村幸

ローマの信徒への手紙 14.10-23
 
 この箇所でパウロがローマの信徒たちに書き送っているのは、特定の食べ物を摂取することの良し悪しではなく、異邦人キリスト者と、ユダヤ人キリスト者との関係性について。全くゼロからイエスを知って信じるようになった人々と、ユダヤ教的な知識と生活習慣を土台としてキリスト教に改宗した人々との間には、深い隔たりがあった。

 同じ教会に集まっているのに批判し合い、ちっとも心一つにならない。他の異邦人共同体にも見受けられたそんな様子をここにも想像して、兄弟同士で裁き合い、侮り合うあり方をパウロは叱責する。全ての人が神の裁きの前にのみ跪くのであり、それ以前に自らを裁判官として他者を非難すべきではないと。

 正しさや理解をめぐっての対立というものは、このパウロ書簡が書かれてから2000年近く経った今も相変わらずどこにでも見られる。キリスト教徒としての生活規範や信仰のあり方、礼拝や聖礼典のあり方。聖書理解。溝を作る元は無限にある。

 キリスト教世界だけではなく、世の中全般もそうだといえる。ネット上でも現実世界でも、異なる意見を持つ者を叩き潰さなければ、人は自らの正しさを証明できないものなのかと嫌になるような中傷の応酬があちこちに見られる。或いは何々ハラスメントという名称は増えるばかりで、もう誰が何をしていいのか悪いのか誰もわからない。何故これほど裁き合う世の中になってしまったのか。  
 
 ここまで挙げた全ての問題に共通して足りないのは、対話ではないか。それは異なる立場にある者同士が互いを少しでも理解するために持つものである。自らの正当性や正論を相手に説いて聞かせるのは、対話ではない。説くよりもむしろ、聴くことに主眼があるのが対話であり、いかに相手の思いや考えをよく聴くことができるかが、その質を決定する。  
 
 対話を重ねた相手が増えていくほど、心の内に様々な他者の思いが根付き、自らの答えや選択肢に幅が生まれてゆくことになる。それが人としての豊かさではないだろうか。私たちは目に見える豊かさと引き換えに、自分の正しさしか認めない乏しい人間になってはいないか。自分より上の人の話は聞いても、自分よりも若い人、小さい人、弱い人の声を聞く時間と労力を省いて来なかったか。 声なき人の声を聴くために歩んだのは、遥かな天の高みから低きに降られたのは、私たちのよく知るイエス・キリストである。主を信じる人がその在り方に倣わないなら、一体誰が御心を継ぐことができようか。

 果たして、パウロの書き送ったアドバイスによって、ローマの教会の人々は蟠りを解消できただろうか。おそらく難しかっただろう。他人はそうそう変えられないものであり、蟠りは残る。むしろどんな話し合いをしたとしても、その蟠りをなかったことにしてはならない。その消えない蟠りこそが、それぞれの、それぞれらしさでもあるのだから。 この蟠りを互いによく認識し、間に挟んでその違和感を味わった上でなお、それでも一緒に歩みたい。それでも関係を築きたいのだと互いが思えた時に、そこに新しい道が生まれる。共同体は共同体になり得る、同じ理想を描いて進むことができる。その人の輪の中には、今も昔も、主がおられるのだろう。 兄弟を裁き、滅ぼすのではなく、まだ見ぬ新しい在り方を模索して、共に生きていくものでありたい。