主日礼拝|今週のみことば


主日礼拝説教(2024.06.23)


「委ねられている重み」木村拓己


ヨハネによる福音書 4.27-42


 先日、片柳弘史司祭(カトリック宇部教会)の講演を聞きました。冒頭語られたのは、社会に敏感であってこその教会であるとの言葉でした。人々が何を必要としているのか、不安に寄り添う態度を教会は持ち合わせているか。そこで、どんなことに希望を見出すかという視座に立って話されました。
 印象的だったのは「教会から喜びが消え去っていないか」という問いでした。「コロナ」、高齢化、教会が考えるべきことはさまざまありますが、教会が本来持つ福音の喜びに満たされて、「自分にもできることがある」という希望に支えられて、日常へと出かけているかと問うておられたように思います。
 教会の取り組みは、どこに根ざしているでしょうか。教会はキリストの福音に根ざし、キリストの福音は私たちの苦しみを知る神、共にいる神、それでもあなたは尊いと語る神に根ざしています。ですから、何気無く行う私たちの行いは、実はキリストが語られた福音、喜びの良い知らせを伝えるものでもあるということです。
 本日の聖書は、イエスとサマリアの女性の物語の続きです。ユダヤとサマリアは互いに憎み合わざるを得ない歴史の上に立ち、イエスと女性の間にも隔たりがありました。
 歴史によって隔たりが作られ、偏った見方を生み出し、今もなお社会に蔓延る現実があります。それは今日の始まりの部分、イエスとサマリアの女性が話していることに驚く弟子たちの姿からも感じ取れるでしょう。
 気づけば、この女性はイエスとの対話を経て、証人となり、伝道者となっていきました。この女性は、水がめを置いたまま街に行ったと記されています。彼女は自分の生活に必要なものをさしおいてでも、先に伝えるべきことがあったのです。すなわちイエスの福音を告げ知らせるという使命が先に立ったのでした。
 この福音はサマリアの町全体へと広がりました。歴史が、社会がつくってきた隔たりを、この女性の言葉は超えていったのです。ここに福音の力があり、喜びがあります。この女性はきっと生き生きとその福音を語ったことでしょう。「教会から喜びが消え去っていないか」という冒頭の指摘と重なる思いがします。
 39節以下、イエスはお願いされて二日間滞在しています。三日目の朝、イエスを前にサマリアの人たちは信仰を告白します。ここに十字架と復活の出来事を重ねることができるのではないでしょうか。深く傷ついた歴史、経験を超えて、隔たりを超えて、主と共に歩み出す希望を選び取った物語がここにも描かれているのではないでしょうか。主から委ねられた福音を伝える働きに重みを感じつつ、喜びをもって伝えていきましょう。