主日礼拝|今週のみことば


主日礼拝説教(2024.12.1)


「思いがけない時」 木村拓己牧師


マタイ福音書 24章36-44節


世の片隅で救い主イエスがお生まれになった時、ほとんどの人は気づきませんでした。アドベントを過ごす上で大切なことは、まず喜びをもってイエスの誕生を迎えるところにあります。もう一つ重要なテーマが、主の再臨と差し迫った神の裁きについてです。本日の聖書日課はまさにその内容です。「目を覚ましていなさい」と告げています。
アメリカで説教学と礼拝学を研究してきたロナルド・バイヤースという神学者によれば、終末論はキリスト者の希望を明確にするにもかかわらず、主の再臨や神の国、神の支配といったテーマは説教や礼拝から遠ざけられ、取り上げないようにする力が作用してきたと指摘します。さらには、ローマ・カトリック教会やプロテスタント教会の礼拝で軽んじられてきたとまで言うのです。
世の終わりや主の再臨、神の裁きといった言葉の強さのために、迫られるような物言いが不快と感じられたり、感じるのではないかという恐れからあえて語らなかったり、ある種受け入れられない部分として教会は目を背けてきたのだと思われます。だから、終末や主の再臨を強調しすぎることに対して、少なからず抵抗があることを思います。これは今日的なことではなくて、日本の教会だけでもなくて、「世界中の教会がずっと昔から忘れようとしてきたのではないか」とバイヤースは指摘するのです。
むしろ神の国とは、私たち信仰者の継続的な(人間的な)努力によって、この世に神の国をつくり出そうとする形で実践されてきました。対外献金、幼児施設や福祉施設の併設、フードバンクや子ども食堂、炊き出しなど、地域における教会の「見える」諸活動を通して、「ここに神の国がある」と働いてきたのではないでしょうか。
一方で、私たちの礼拝を見つめると、終末論的な要素が残されてもいます。主の祈りでは「御国を来たらせたまえ」、信仰告白では「かしこよりきたりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」といった言葉は、神の国の到来、主の再臨を待ち望む確かな祈りです。が毎週口にする言葉であり、何十年も祈り告白し続けてきた方も多いはずです。聖餐式の式文でも「主が再び来られる日を待ち望む」「主が再び来られる時まで主の死を告げ知らせる」といった言葉が出てきます。
最も大切なのは、「神さまは正しい存在だ」と明らかになることです。イザヤは、主の再臨の時には「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(2章)、「主なる神はすべての顔から涙を拭う」(25章)と語りました。この考え方は、新約聖書においてイエスのたとえ話や癒しの出来事、共に食卓を囲もうとする愛の業へと展開されていくのです。
イエスが世に来られたのは、神の正しさを世に表すため、共に食卓を囲む祝宴の先取りでした。そのためには、十字架と復活という出来事をも辞さず、私たちのために歩まれたのでした。終末と聞けば、どこか怖い印象があります。その実は、イエスが歩まれた生涯の根幹を支えるテーマであり、イエスの歩みに目を凝らすたびに、私たちは終末において示される神の正しさに心を寄せているのだと言えます。
終末の時は、いつか、どんな時かは誰も知りません。人の子が来るのはノアの時と同じだと言われています。自分の人生という時間を優先して日常を忙しくしたとしても、それがどんなに必要なことであっても、神さまがいることを忘れてはならない。すべての命は神の御手に置かれていることを忘れてはならない。だから「寝ても覚めても、主を思う気持ちを抱きなさい」と語られるのです。
ここで二人の男、二人の女が登場し、一方は神のもとへと招かれます。もう一方は、その人の生活の場に残されるのです。しかしそれ以上はすべて神の側にあって、私たちが知ることはできないのです。信仰者はそのことを想像しながら、イエスの背中に学びながら、今日できることをなして生きてきたと言えるでしょう。
だから「目を覚ましていなさい」と語るのです。目覚めていても、眠っていても主と共に生きる(一テサロニケ5:10)ことを大切にすることです。キリストは私たちを脅しているのではなくて、決して滅びることのない御言葉に従って生きよ、希望を置いて生きよと語っているのではないでしょうか。怯えて待つのではなく、栄光の時として喜びをもって待つのです。
日々主に従って希望を持って歩むこと、この一言に尽きます。クリスマスを先取りし、救い主の誕生を待ち望むのがアドベントです。なぜそのアドベントに終末論が取り上げられるのか。それは、世に希望が失われていることが前提とされていると確認しなければなりません。世界にはいつも貧しくされている人、小さくされている人がいる。そのことをキリストは教えてくれるのです。その良い知らせが今年それらの人々に届きますようにと願うのです。
マタイ福音書の終わりには、いわゆる大宣教命令があります。マタイは、世の終わりが神によって遅延させられたことを恵みだと考えました。すなわち、世を生きる全ての人々が福音を聞いて、受け入れる機会を待つようにと神は保留してくださったのと理解したのです。
「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と語ったキリストは、共にその完成の時を待ち望み、共に働くキリストなのです。私たちの目にはキリスト不在に見えるけれど、不在の中で気がそれてしまうこともあるけれど、しかし主はインマヌエル、私たちと共におられる方なのだとアドベントの時、しっかりと捉え直したいと思うのです。思いがけない時、それは神さまから離れている時にのみ起こる事柄です。どんな時でも、神に向き合って歩むことを喜びとし、常としたいのです。