「言葉つぐむ時、紡ぐ時」 木村拓己
マタイによる福音書17章1節-13節
イエスはペトロとヤコブ、ヨハネの3名を連れて、高い山に登ります。複数人での登山は大変だそうです。自分のペースで進める一人に比べ、二人、三人と増えるにつれて、かかる時間は増えるそうです。しかも相手は子どもではないので、自分で考えて勝手な行動を取るのだそうです。列を組む時は、後ろに行けば行くほど、他人のペースで歩かなければなりません。しっかりリーダーとなる人がばらばらな登山になってしまっていないかと目を配るのです。
イエスをリーダーとして、弟子たちは同じ目的と目標に向かって生きるチーム、共同体です。私たちの教会はチームになることができているでしょうか。教会のおもしろいところは世代を超えた関係です。子どもから大人まで、イエスさまに愛される一人ひとりとして招かれています。しかし同時に、教会の中身を見てみると、年齢や性別、世代などさまざまな区切りがあることも事実です。
ともすれば、属性で互いを縛り合ってしまうのが、世の常なのかもしれません。何のために教会や各会をつくりあげているか。やっぱり主の前に良い関係を結ぶためにほかならないと思うのです。私たちはお客さんではなくて、主に仕え、主を証しする一人ひとりなのではないでしょうか。
さて、高い山を登りきりました。すると弟子たちの前でイエスの顔と姿が変わりました。顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったとあります。さらには、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っています。このすばらしい出来事を証しするために、ペトロは「仮小屋を三つ建てましょう」と申し出ます。よかれと口を開くのです。それを遮るように神からの語りかけがあります。「イエスの言葉を聞け」と。言い換えれば、ペトロは「沈黙せよ」と神に言われているのです。ペトロと弟子たちはこの神の言葉を聞いてひれ伏し、非常に恐れました。神の顔を見ると死ぬと言われてきたからです。顔を合わせることは対等であること、目線を合わせること、語り合うことだからです。
はて、イエスがエルサレムに入った時はどうだったでしょうか。ひれ伏すのではなく、同じ目線で、語り合える距離でイエスを喜び迎えました。イエスがどのような存在で、どのような態度で私たちに向き合っておられるかが窺えます。言葉をくださり、耳を傾け、目を合わせてくださる主、触れて、食事を共にしてくださる主、それが私たちの主イエスの姿なのではないでしょうか。
このことを変に理解し、まるでイエスを自分と対等であるかのように錯覚したり、あるいはイエスを格下と捉え、自分たちの伝統と慣習に対して否と言うイエスを許せない人々が出てきます。「イエスを十字架にかけろ」と声を荒げていくのです。
話を戻します。神の声を聞いてひれ伏したペトロたちに対して、イエスは手で触れて、「起きなさい。恐れることはない。」と語りかけます。モーセもエリヤも、光り輝く雲もいなくなり、ただイエスだけがそこにおられました。目を合わせ、言葉をかけてくださったのです。
山を降りる時にイエスは言います。「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と。言い換えれば、復活した後は、積極的にこの出来事を告げ知らせよ、救いを宣べ伝えよという意味となります。「今見たこと」(9節)は、「幻」という言葉が使われています。これからイエスを宣べ伝える宣教の時代に入っていく。このことに弟子たちがどう応えていくか。そして、読む私たちがどう応えていくのか。聖書は「これから」という私たちの幻を語りかけているのです。
イエスの声に耳を傾ける者でありたいと思います。期待しない言葉をあしらってイエスを苦しめるのではなく、「こうでしょう?」と自分の解釈に対する答えを迫るのでもなく、ただただイエスの本当の心に触れたい、聞く者でありたいのです。ひととき沈黙して神に聞きましょう。そこから神の言に対する私たちの賛美と祈りという応答が始まっていくのです。主の言葉によって、私たちの関係は確かに紡がれていくのです。果たして、自分は主の言葉に聞いているかと問うてみつつ、主が示される新しい始まりに向かっていきましょう。