主日礼拝|今週のみことば

  主日礼拝説教(2025.11.30)

「目を覚ましていなさい」  マルコによる福音書 13章32節-37節

木村幸 牧師

 今日の箇所において、その日、その「時」は誰も知らないとある。人々が期待したがイエスの存命中にその時はやって来なかった。イエスの死という絶望を経て十字架の意味と復活を知った人々は、いよいよ時が来るのだといっそう背筋を伸ばした。しかしその時はやはり来なかった。間も無く来ると思われた約束の時は、二千年が経ってもまだ来ていない。いつその時が来ても不思議のない流れの中に、私達は今現在も身を置いているのだ。
 思いがけない時とは、果たしてすべての人にとって思いがけない時なのだろうか。伝承や律法に詳しいラビたちにも、占星術に詳しい学者や占い師たちにも、世の中で地位と権力を誇る支配者たちにも、イエスに従っていた弟子たちにさえ、「思いがけない」時。誰にとってならその時は望ましい時に来るのか。
 それはおそらく、この世の中で一番絶望している人たちにとってだろう。社会に見捨てられ、人に裏切られ、失うもののない人々。もう明日が来なければいいと思うほど、悲しみの底にいる人々。そんな人々にとっては、いつこの世界の終わりが来たとしても、喜ばしいとすら感じられるのかもしれない。
 イエスはそうした社会の隅にいた絶望した人々を訪ねて旅をした。世界の終わりを待っていた人々はむしろ、この上のない喜びと希望を与えられた。イエスの伝える福音に真実の価値を見出していたのは、弟子たちのように偉大な指導者の威光にあやかりたいとイエスに従った人々ではなく、もう明日がいらないと思うほどの孤独と絶望を知っている人々だったのだ。
 私たちの多くは、失うには惜しいと思う大切なものをたくさん抱えてしまっている。その「時」が来たとして、それを喜んで受け入れられると言えないかもしれない。しかし私たちにある恵みは自分の力によるものではなく、主によって与えられるものだと考えるならどうか。そこには御心による意味が必ずあり、私たちには与えられたものを用いてこの世で為すべき何かがある。自らの持つ恵みを他の誰か、何かのために用いてゆくならば。それは確かに来るべき時を、目を覚まして待つ在り方の一つなのではないか。
 直視に耐えない現実が見える時、私たちは目を背け、あるいは目を閉じたくもなる。いくら目を凝らしても未来の方向に闇しか見えないかもしれない。それでも私たちは目を開いて、主の帰りを待つことを自らの光としながら、立ち続けなければならないのだろう。受動的にではなく能動的に待つという行動を選びながら、この待降節を過ごしてゆきたい。