主日礼拝|今週のみことば

  イースター総員礼拝説教(2026.4.5)

「再出発」  マルコによる福音書 16章1節-8節

木村拓己 牧師

 イースター礼拝。イエスが十字架にかかられたのは、私たちのための犠牲であったと聖書は語ります。私たちも喪失を体験します。この春に卒園・卒業した人、進級した人はそれまで過ごしたクラスの一年間が終わりました。働きに区切りをつけた人、近しい人に別れを告げた人、それまでの居場所から遠ざかった人がいます。新たな出会いや環境を迎えることは、喪失をも経験しているのです。
イエスの死は大きな喪失の体験でした。この喪失を超えて示される神の力。死を超えて、悲しみを超えて示される神の力、それが復活の出来事です。しかし自分の喪失の体験がチャラになるわけではありません。しかし同時に新たな希望が添えられる出来事。それがイースターの出来事ではないでしょうか。
思いが通じ合わず、心に傷を負ったままの私にも届けられる希望があるとするならば、主に希望を置いて進むことができるなら、復活の主は私の考えや思いを超えて、赦しと和解の時を備えてくださることをも信じたいのです。拙くとも、自分の言葉を抱きながら、喪失と共に、希望と共に歩んでいきたいと願うのです。
マルコ16章は9節以降も文章は続きますが、後世の加筆だと考えられています。つまり、空っぽのお墓を見た女性たちは逃げ去ったところでマルコ福音書は閉じられています。「あなたは救い主です」と宣言した弟子たちの姿も見当たらないのです。
安息日が明けた次の朝、女性たちはイエスの墓へやってきます。墓を塞ぐ大きな石を考えながら歩いてきます。しかし大きな石がわきへ転がされており、墓に入ると、白い長い衣を着た若者が座っていました。
その若者は言うのです。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と。」弟子たちはイエスを見捨てたけれど、イエスは弟子たちを見捨てない。私たちとイエスさまの根本的な関係がここに描かれているのではないでしょうか。
しかし女性たちは逃げ去ります。よくよく読むと、8節の文章の順序は日本語らしくない表現です。逃げ去ったという動詞に続いて、理由が述べられていくからです。実はマルコ福音書は、文章の途中で終わっています。接続詞「なぜならば」で終わるのです。8節はギリシャ語の原文に近づけて訳され、そこに含みが持たされているのです。「なぜならば」で終わるマルコ特有の復活物語が示すのは、イエスに従おうとした誰もが失敗した事実です。弟子も女性も最後には逃げ出すのです。そこで物語は終わるのです。
あなたは復活の主が待つガリラヤへ行くのかと、マルコ福音書を通して私たちは問われているのではないでしょうか。自ら考え、自分の答えを出さなければならない。そういう物語なのではないでしょうか。
まだ女性たちも弟子たちも復活の主に出会っていません。自らガリラヤに向かい、主に出会う必要があるのです。再び主に出会い、再び主に従って生きるという再出発の約束が備えられているのです。
イエスは復活の主である。このことを自分の内に確かめて聖餐式に与りたいと願います。たとえ今は心が動かなくとも、大きな石で自らを塞いだとしても、復活の主によって取り去られる時がいつかやって来るかもしれません。
主は私たち一人ひとりの歩みの先で待っておられる方だからです。空っぽの墓を見つめ、それぞれの喪失の体験をも見つめ、ここから歩む先で待っておられる復活の主に出会う旅へと出かけていきましょう。