主日礼拝説教(2025.11.23)
「いと小さき者」 サムエル記上 16章1節-13節
木村拓己 牧師
働くという言葉は、「傍を楽にする」から来ている言葉だそうです。神の働き、聖霊の働き、教会の働き、牧師や信徒の働き…教会でも「働く」という言葉はよく使います。「働く」という言葉をよく使う私たちだからこそ、その働きが自分の利益のための働きとなっていないか、「傍を楽にする」、ちゃんと誰かを支え、助ける働きとなっているかを改めて吟味したいと思います。
今日は、サウルに代わって新たな王となるダビデが召し出される物語です。神の言葉を預かってきたサムエルの人生の中で、一つの大きな驚きだったでしょうか。神がなすべきことは告げられると信じてベツレヘムに赴いたサムエルの前に立ったのは、少年ダビデであったということです。
年下の弟が兄を追い抜く物語は、旧約聖書を通して神が好む物語なのでしょうか。カインとアベル、エサウとヤコブ、兄たちとヨセフなど。神の選びは人の思いを超えて自由であると気付かされます。サウルもまた、最も小さな民族であったベニヤミン族から立てられた王でした(ミカ書5:1)。
ベツレヘムは何もないさびれた町でした。そんな弱く小さなところに神は目を注がれる。さらにはダビデ、さらにはイエスへと続く系譜が紡がれていくこととなるのです。弱く小さなところに神は目を注がれる。イエスが人として、まして最も弱く小さな存在として世にやってこられたという出来事は、新約聖書において明らかにされた事柄ではなくて、旧約聖書にしっかりと基づいた救いの出来事であることがわかると思うのです。
サムエルはダビデの兄たちを見た時、体躯に恵まれた美しい者が召し出されると想像したでしょう。年齢順に見ていったことからも、年月を経て経験を重ねている者が望ましいという一般的な理解に基づいて考えたのでしょう。しかし神は「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と答えたのでした。こうして末の息子、呼ばれてさえもいなかった末っ子が呼び出されるのです。
王となったサウルもダビデも、自らの決断で王位に立ったのではなく、全く自分の選択肢にないところから神によって選び出されたことが特徴的です。信仰者は自分に可能な選択肢から選んで働くだけでなく、時にそれを大きく超えて、自分の選択肢に入らないような働きをも担うこととなる。自分の能力を超えているから、自分の都合に合わないから…ではない。神が選ばれたという思いに立って行動する時、現実的な目線から一線を画す歩みが始まることとなるのです。
キリスト者として生きるということは、そういうことなのではないでしょうか。自分の決断によって自分の力ですべてをまかなおうとすることに終始するのではなく、目の前に出された課題によっては、たとえ余裕がなかったとしても、自らのこととして受け入れるところに信仰者の生き様があるのではないでしょうか。たとえ万全でなかったとしても、なんとか受け入れる場が、可能性が私たちの手には残されていないかと探り出すのだと思うのです。
この油注ぎによってダビデに霊が降り、神と民のために働く者となります。そして神の霊の導きによって、はるか遠く、後代に至るイエスにまで続く線が引かれたのです。イエスは洗礼を受けることによって霊が降り、神と人のために働く者となりました。ダビデに降った霊はイエスに降った霊であり、そしてまたペンテコステに弟子たちに降った霊です。それは私たち一人一人に神から授けられていることを心に留めたいのです。
ダビデこそ、イエスこそ、長く待望されてきた者、あらかじめ選ばれていた者、将来に備えて油を注がれた者。しかし神の目には、私たちもまたその一人として選ばれ、招かれた者として愛されているのです。キリストを頭として、私たちはその一部分としてからだを形成しているのです。
いと小さき者でも、主の目には栄光をあらわす輝く器だと言い切る神の愛を味わい、私たちもまたその愛に結ばれた一人として歩む者でありたいのです。私たちは誰のために働くことができるでしょうか。
