主日礼拝|今週のみことば

  主日礼拝説教(2026.3.29)

「語りたくない話」  マルコによる福音書 15章21節-41節

木村幸 牧師

 棕櫚の主日に指定されるこの場面。福音書は四つあれど、どれを何度読んでも気が重い箇所であり、気持ちとしては語りたくない話だ。マルコ福音書でいえば全16章合計678節で描かれるイエスの生涯のうちたった20節。それがこのマルコの描く福音の核心でありクライマックスであると考えると、短いくらいにまとめられている。そこに事実以上の情感は込められず、ただ淡々と事実が叙述される。
総じてこの場面は詩篇22編を基調とする。ただし詩篇22編は義の受難者はやがてその正しさが証明されるという希望のある終わりに向かうが、ここではマルコはイエスの徹底的な孤独を強調する。やがて主は死に打ち勝ち復活を遂げられる。福音書を読む私たちは、キリスト教を信じる我々はその結果ありきで聖書を読んでいるが、そこに至る十字架の死まで実際は、主イエスはただただ孤独の中を歩まれたということ。最後に離れたところから女性たちが見守っていたことが言及されるが、そこにあるべき弟子たちは逃げ去っていないのだということが思い起こされる。
しかし果たしてイエスを孤独にしているのは弟子たちなのだろうか。何度御言葉の解き明かしを聞いてもその度に忘れ、いまだに御心を理解できない私たちも、十字架のイエスを孤独に苦しませ続けている一人ではないのか。最後の週になってレントを振り返る時、私たちは果たして主がゴルゴダの丘へと進む、その道をどこまでついていくことができただろう。
私たちも自身の「語りたくない話」を語る機会が必要なのではないかと時に思わされる。私たちには人に隠しておきたい話、暗くて寂しくて情けなかったような時があったからこそ、私たちはイエスの十字架に救われて繋げられたのではなかっただろうか。今ある私たちの在り方を形成しているのは自分がなしてきた偉業ではなくむしろ、味わってきた孤独や悲しみである。その孤独や悲しみは、イエスの歩まれた茨の道をほんの少しでも私たちが歩んだ証であり、そして主が私たちを教会へ導いて下さった絆でもある。そう考えた時、自分が成したことや良い部分だけではなく、むしろ語りたくない話を大切な人たちに伝えておく事もレントには相応しいのかもしれない。
主が辿り着かれる十字架の場所から私たちの歩んだ道をも振り返り、痛みと孤独を主のために覚えて、受難節最後の一週間を歩みたい。