主日礼拝|今週のみことば


主日礼拝説教(2022.5.15)


「私につながっていなさい」  石田 透


ヨハネによる福音書15:1-11


 引き続きヨハネによる福音書のイエスさまの言葉を学びます。最後の晩餐でのイエスさまの言葉です。聞き逃さないでしっかりと受け止めていきたいと思います。
 今日のヨハネによる福音書の「ぶどうの木」のたとえは、ヨハネ独特の象徴的な話です。文脈と言うか流れと申しますか、今日の箇所は13章の最後の晩餐での洗足の物語から続いている箇所です。イエスさまは弟子たちといっしょに食事をいたしました。そこでご自身の十字架の贖いを暗示すると共に、分かち合おう事の素晴らしさを表現なさいました。またイエスさま御自身が弟子の足を洗うことを通して、弟子たちに対して仕え合うことの大切さを身を持って示されました。そして次にイエスさまがなさったことが熱心に語ると言うことでした。重要なメッセージをイエスさまは語り続けます。
 13章14章は弟子たちとイエスさまの対話形式で言葉が綴られていきます。しかし段々と熱を帯びてきたイエスさまは15章になると独りで語り続けられます。独話的と言うのか、独りでひたすら語り続けるという形です。その話の内容は、イエスさま復活後、そして昇天後の信徒の生活の在り方を念頭においたメッセージです。イエスさまは天におられ、人は地にあるという新たな状況、つまり事柄に即して言うと、イエスさまが傍にいないという現実の中で、人はこの世界のただ中で何を目当てに、何を大切に、何を求めて、何を目指して歩んで行くのかが語られていくのです。その地上での困難な旅の途上で、人間を支えるのは傍にはおられないイエスさまとのつながりです。イエスさまとつながっていることにより、人間は生きる意味と喜びを見い出し、力強く与えられた人生を歩むことが出来るのです。
 ところで、このぶどうに関するたとえというのは、今から二千年前、イエスさまがはじめて話されたというわけではありません。旧約の時代においても、イスラエルの民は繰り返し、ぶどうの木として象徴的に描かれているのです。イザヤ書5:1-7を読みます。
 「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ、わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ酸っぱいぶどうが実ったのか。さあお前たちに告げよう、わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、その石垣を崩し、踏み荒されるにまかせ、わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑。主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁きを待っておられたのに、見よ、流血。正義を待っておられたのに、見よ、叫喚。」
 特に味わい深いと言うか、ぞっとしてしまうのは7節の言葉です。神さまの望みとは裏腹に、人間の現実は公平な裁きではなく世には血が流され、正義の打ち立てられる代わりに叫喚(大声で叫び喚くこと、地獄の様子)だと言うのです。旧約の預言者はイスラエルの罪や弱さをそのように表現したのです。まさにこれが人間の現実です。
 それに対してイエスさまは、そこから血筋や国柄の故にぶどうの枝とされていく民族的な枠を外し、ご自身を「まことのぶどうの木」(1節)として位置づけます。そしてイエスさまとの親しい生き方、交わりを持つことが一人ひとりの生き方にとって決定的に大切なことなのだと私たちに告げるのです。まず個であるこの私がイエスさまとつながることをイエスさまは求めます。そして「ぶどうの木」はよく教会にたとえられます。それは私たちは神さまの前にあっては徹底的に個(独りで立つということ)ではありますが、同時に私たちは一つの幹につながる枝々のように生命のかよった共同体を形成する一員であることを表しているのです。1-11節の間に、「つながる」とか「とどまる」という言葉が10回以上出て参ります。この言葉はヨハネによる福音書では、イエスさまと弟子たちとの生命の豊かな繋がりを示す場合によく使われるのです。
 「つながる」とか「とどまる」という言葉をお聞きになって皆さんはどう思われるでしょうか。「つながる」あるいは「とどまる」、特に「とどまる」という表現は一見、静的で停滞を表現する言葉のように感じてしまうかもしれません。しかし、この言葉は実は自分の足もとを見つめながら前進していくダイナミックな人間の姿を現しているのです。この言葉はやがて、「愛にとどまりなさい」(9節)つまり「愛のうちにいなさい」(これは愛の主体となるということです。)と、より具体的に展開されていき、私たちがイエスさまの愛の奉仕の業を担う者であることを示していくのです。
 私たちは「愛にとどまりなさい」と言うイエスさまの言葉を聞く時、一人ひとりの弟子の足を丁寧に洗って下さったイエスさまの姿をあらためて思い起こします。私たちはそのイエスさまの姿にこそ、豊かに実を結んだ人の生き様を見ることが出来るのです。私たちが生命のかよった幹につながり、人生の豊かな実を結ぶ秘訣はこのイエスさまの姿にあるのです。私たちはイエスさまの愛の中に、しっかりとつながり、じっくりととどまることにより、豊かに生きていくための養分をイエスさまからいただくのです。

 私は今日のこの文脈、つまりユダがイエスさまを裏切り、ペトロがイエスさまのことを知らないと言ってしまったという現実の中で、イエスさまが彼らを赦しつつ「わたしにつながっていなさい」と弟子たちに向かって呼びかけ続けておられるという姿に触れた時、イエスさまという方は、私たちのことを決して諦めない方なのだと改めて確信したのです。この方は私たちが「もういいや」とばかりに自暴自棄になり、自分の人生を勝手に値切ってしまっていても決して諦めないのです。私たちの未来を諦めないのです。この方は本当にちっぽけであっても、神さまが全ての者の心の中に作ってくださった真心や良心、私たちの内にある小さな可能性を本当に信じていてくださるのです。そしてペトロやユダを始め全ての者の心に向かって語り続けるのです。この私が、またこの世界がどのような不信仰な姿をさらしていたとしてもイエスさまは招き続けます。この世界がイエスさまを裏切ろうとも神さまを裏切ろうとも、イエスさまは招き続けるのです。「わたしにつながっていなさい」という言葉をもって招き続けるのです。何というお方でしょうか。私たちはもはやこの方につながり続けていくしかないのです。
 イエスさまは今この時も、心から私たちを招いておられます。「わたしにつながっていなさい」と招いておられます。わたしたちは色々なところを彷徨い、そしてついにこのイエスさまの御許にたどりついたのです。小さな子どもも若き者も、壮年も、年配の者も、男も女も、皆このイエスさまにつながっているのです。私たちはそこから沢山の恵みと生きていく喜びをこれからも受け取っていくのです。