主日礼拝説教(2026.1.18)
「わたしが選んだ器である」 使徒言行録 9章1節-20節
木村幸 牧師
パウロの回心という出来事は確かに劇的で印象深いものであるが、よく読んでみるとここでパウロは何か悔い改めや反省などはしたように見られない。ここまでイエスを信じる者を迫害してきた事実については省みられないのだ。主にサウロの元へ行けと語りかけられたアナニアが思わず言い返してしまったのは人として理解に難くない心情である。何故あんな酷い人間をと思っただろう。そうしたアナニアの懸念に対して、揺るがない主の言葉にこそ、確かな答えが込められている。あの者は、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう、と。
この言葉にはパウロの劇的回心以上の衝撃をあると感じる。主の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを示されるために、パウロは選ばれた。選ばれることが栄誉などというものではない。能力を見込んでスカウトされたというわけでももちろんない。苦しむために、なのだ。
なるほどそうだとしたらパウロが自分のしてきた過ちを悔い改めることもなく主の道に導かれているのも腑に落ちるかもしれない。この後はその報いであるかのようにひたすら苦しまなければならないのだから。すると果たして私たちもそうなのだろうか。私たちが招かれて教会に集うことは、主に選ばれた器として、その名のために苦しむためだったのか。
そうかもしれないと思う部分と、そんなはずはないと思う部分が誰しもあるだろう。招かれることなく、神様のことなど知らず、御言葉が胸に刺さることもなければ、もっと悩まずに苦しまずに気楽に生きられたかもしれない。時間と労力を費やして教会のために尽力しなくて済んだかもしれない。
しかし主のための労苦と悩みは同時に、他で得ることのできない実りや、学び、繋がり、そして喜びを私たちに満たしてくれるものでもあると私たちは経験的に知っている。そして私たちが悔いても悔やみきれることのない弱さや過ちを、地道に償わせてもらえる唯一の道でもある。パウロに与えられたそれと同じなのだ。主の道は、罪深い私たちに示された実刑であり、そして同時に救いである。それが十字架ということなのではなかったか。
パウロという強烈な個性と数えきれない功績を示した器もあれば、アナニアさんのように、たったひとつの大切な役目を担って、それ以外は陰に隠れてしまう器もある。ここに集められた私たちも一つ一つが、主に選ばれた器である。いつ何に用いられるのかどうかとそわそわしながら、十字架を見上げてその時を待っていたい。
