主日礼拝|今週のみことば

  主日礼拝説教(2025.10.05)

「聖なる愚か者」  マタイによる福音書 19章16節-30節

木村拓己 牧師

 熊本市の慈恵病院は、「こうのとりのゆりかご」と呼ばれる、国内で初めて養育できない赤ちゃんを匿名で預かる取り組みを2007年に始めました。「赤ちゃんポスト」と呼ばれて話題になりました。その記憶はあっても、その後どうなっているかを知る人は少ないのではないでしょうか。2024年度までに193名が預けられたそうです。2024年度は14人と、10年で最も多い数字だったそうです。
 2025年3月には、東京都墨田区の賛育会病院に「いのちのバスケット」が新たに設置されました。それは赤ちゃんの命を守り、その母を守るためです。社会的に孤立し、家族にも相談できず、支援を受けないままに一人で出産せざるを得なかった人を守る取り組みです。出産前であれば、「内密出産」の制度も整ってきています。
 いずれの病院もキリスト教信仰を礎として運営されていることを知りました。法整備が追いついていない取り組みであるゆえの課題もあるでしょう。しかし子どもと母の命を守る覚悟を抱いて、取り組みを続ける2つの病院方針と、医療従事者たちの働きがこれからも守られるよう願わずにはいられません。そして、相談できない女性が一人でも相談先を見つけられるようにと願うのです。
 さて本日の聖書は、ぶどう園のたとえです。9時、12時、15時、17時に雇われた人々がいました。主人である神が一日に何度も広場に足を運ぶ姿にも注目したいですね。立っていた人は働く意欲を持たない人というより、むしろ働きたくても選ばれなかった日雇い労働者の姿でしょうか。
 別の仕事場に行ったけれど賃金をもらえなかった人、あるいは、家のことをしてからしかでかけられない人もいたかもしれません。個々人が持つ事情によって社会に必要とされない状況、今日を生きる糧を満足に得られない状況はいつの時代にもあります。
 そこにぶどう園の主人と言われる神が人々を招き入れるのです。ぶどう園である教会、その教会の頭であるキリストは、「何をつくりあげたかではなく、誰と生きようとしているか」ということを改めて私たちに思い起こさせる物語なのではないでしょうか。
 主人である神は「同じように支払ってやりたいのだ」と語ります。イエスは、ほとんど働くことができない者に実際に出会ったからこそ、このように語ったのでしょう。イエスにとって大切なことは、そこにいたみんなが賃金を得て、食事し、今日の一日を生きることができた点なのです。だから「後の者が先になり、先にいる者が後になる」と言われるのです。今日を生きるのに誰よりも大変な思いをしている人がいる。糧を得るために働きたくとも十分に働けない者がいる。このことに私たちは気づかされるのです。
 物語の中でおもしろいのは賃金を支払う場面です。主人は、あえて短い時間しか働けなかった者から賃金を配り始めます。主人は、誰も見向きもしていなかった一人にみんなの視線を集めたことがポイントだと思うのです。イエスは「ここに1時間しか働けない人がいる」ことを分かち合ったのではないでしょうか。
 「この人こそ、神の恵みや守りが今必要だ」と感じる時があるでしょう。それまでの自分の物差しを脇へ置いて、その人のために思いと祈りを尽くすところに、私たちのできる愛、すべき愛が表れてくるのではないでしょうか。その時にこそ、本当の意味で共に生きる者となれるのではないかと思うのです。それこそが神の国なのだ、とイエスは示したのではないでしょうか。
 冒頭にお話しした熊本市の慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」、預けられた初めての子どもは赤ちゃんではなく3歳の子どもでした。宮津航一さんと言います。この方は、2022年に実名を公表され、大学生ながら自らの生い立ちについて講演を続けておられます。
 「血が繋がっているから、一緒に住んでいるから家族が幸せなのではない。子どもにとって最後まで味方でいる存在が家族の幸せなのだ」と語っておられます。そのメッセージを社会に、ゆりかごに預けられた子どもに届けたいと願って、現在も活動しておられるそうです。「ゆりかごにつながれた命を、私たちの社会がどう育み、どう支えていくのか。そのことをみなさんにも考えてみてほしい」と宮津さんは括っておられました。
 神の目は今日も届いている。私たちを捉え、私たちの目が届かないところにも目を注いでくださっている。そんな一人ひとりの命が今日も守られる。そこに神の国を見出し、その恵みに応えようとする者、「この人こそ、神の恵みや守りが今必要だ」と祈り行動する者、そうした働きへと召し出されていく一人ひとりを覚え、神の祝福を祈りたいと思うのです。私たちの間からも、そうした働きに参与する信仰者、また牧会者と伝道奉仕者が起こされていくことを願うのです。