「完全な者となりなさい」 井殿謙牧師
マタイ福音書 5章38-48節
「完全な者となりなさい」という言葉の前を見ると、イエスは、「あなた方の天の父が完全であられるように」という言葉が語られています。私たちが目指すべき完全な者の姿は天の父、つまり神の姿であることが示されています。その神の姿が45節に記されています。天の父である神は、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」とイエスは語ります。
私たちはこのことをどう受け止めるでしょうか。「神は罪人や悪人をも愛する」という言葉を聞くと、私たちは中々納得できない部分があります。それならわざわざ頑張って善人にならなくてもいいんじゃないか、というような気もしてきます。「敵を愛しなさい」という教えも、納得するのが難しいものです。もしこの教えを納得するのであれば、私たちが敵を愛するくらい善い人になることによって、神から愛されて救われるためにと思ってしまいます。
しかし、イエスが語ろうとしているのは、そのようなことではありません。自分が正しい善い人になることによって、自分の行動によって救われる、そのために完全なものになる、ということではないのです。「頑張って善い人になることによって救いを得られる」というのは、根本的に違うということです。
パウロはローマの信徒への手紙1章において、人間は罪深い存在である、ということを語っています。人から善い人だと思われるような歩みをしていたとしても、私たちは神の前では「善人」ではなく、どうしても罪を捨て去ることは出来ません。神の御心に従って生きることができず、神から離れてしまう、そんな罪の存在です。もし神が正しい者だけを救うとしたら、私たちは滅ぼされてしまうような存在です。
しかし、神は正しくない者、罪の存在である私たちを、敵として憎むのではなく、愛してくださっています。御子イエスをこの世に遣わしてくださり、十字架の出来事を持ってその愛を示してくださっています。十字架の救いの出来事によって、私たちは神の子とされ、神を天の父と呼ぶことが赦されるようになっています。
神の愛を受け入れるために、私たちは、何も変わったことをする必要はありません。もっと善いことをしなければ、という必要もなければ、罪深い生き方から抜け出すことも必要ないのです。今、あるがままでいいとされているのが、私たちの父なる神です。神の愛は、いつもすべての人に向かって、今あるがままの私の上にも注がれている。無条件に差し出されている。既に注がれて続けていた神の愛は、私の内に、豊かに差し込んでくる、と今日の御言葉は私たちに語りかけています。
「神がまず私たちを愛してくださった」ということから、私たちは、愛することへと導かれていくのです。神がその善し悪しで、愛して下さったり、そうでないことがあるとするなら、私たちは誰も愛を受けること、救いを受けることは出来ません。私たちは欠けの多い弱い者であり、神に従って歩もうと思っていても、それが出来ない、することが難しい、時に正反対のようなことをしてしまいます。神に愛されるに足る「正しさ」「完全さ」などというものは、誰も持っていません。しかし神は、「今あるがままの私」の上にも愛を降り注ぎ、救いへと招き入れてくださっています。私たちにいつも愛を注いで下さっている、それが私たちの神さまのなあり方だと、今日の御言葉は私たちに語りかけています。私たちがそれを知った時、その深い愛を受け取った時、その良い知らせを受け入れることができた時、私たちは、今よりもう少し、優しくなれるのではないでしょうか。
降誕前第6主日を迎えました。だんだんとクリスマスに向けての準備が始まっています。再来週にはアドベントを迎える私たちであります。アドベントは、イエス・キリストが私たちの救い主としてこの世に来て下さったこと、その降誕の時を思い起こす時であります。イエスは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかり、私たちのために死んで下さった、私たちに、罪の赦しの恵みと新しい命の約束を与えて下さった、その深い愛と恵みを思い返し確認する時であります。その深い愛を受け取る時、私たちは新しく生かされて、主に従って、神が私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛する者へと変えられていきます。
また、アドベントは救いの完成を待ち望む時でもあります。欠けのある私たちの足りないところを主が補われ、完成される時を待ち望むときです。完全ではない私たちを、神が導き、強めて下さることを祈り求めながら歩む時としたいと思います。神の深い愛を心に留めて、互いに大切にしあう愛を、私たちの内に豊かに満ちあふれさせて下さることを願う祈りを、アドベント、クリスマスに向けての、私たちの祈りとしたいと思うのです。