主日礼拝|今週のみことば


主日礼拝説教(2024.3.17)


「光のあるうちに」井殿謙


ヨハネによる福音書 12.20-36



 イエスの十字架の死は、私たちにとって、また全ての人間にとって、どのような意味を持っているでしょうか。
31節以下を見てみたいと思います。「今こそ、この世が裁かれる時、今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」ここで、イエスが十字架にかかって死ぬことによって、この世が裁かれ、この世の支配者が追放される、と語られています。
この世の支配者、私たちを支配しているものとは何でしょうか。それは人間かもしれません。もっと言えば人間が作り出したお金、地位、名誉と言ったものかもしれません。しかし、もっと私たち自身のことを見つめて考えた時、私たちを支配しているものは、外から権力で何かを支配する、ということより、自分の内側で、自分を支配している何か、というものもあるのではないかと思います。私たちは、自分の内側で、自分を縛っている「支配者」に気づかないこともあります。支配され縛られて、苦しく、つらいような生き方をしていることがあります。それは「暗闇」とも言えるような歩みかもしれません。自分を支配しているものが見えず、生きる道が分からなくなってしまう、自分がどこへ行くのかわからない、そんな苦しい暗闇です。
 しかし、そんな中、暗い闇の中、一筋の光が差し込まれます。私たちの主であるイエスは、ご自分のことを「光」と語っています。35節以下に記されている御言葉です。
「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」
ヨハネ福音書の最初を見てみますと、1章9節において「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と語られています。その光こそが主イエスを指しています。また、8章でイエスは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」とも語っています。イエスは、全ての人を照らす、まことの光として、この世に来られました。私たちを支配する暗闇は、光であるイエスに勝つことはできません。イエスの十字架と復活によって、「この世の支配者」である暗闇は追放され、光であるイエスの支配が確立したのです。イエスのもとに引き寄せられ、その救いにあずかっている者は、暗闇の支配から解放され、光の下で生きているのです。
 しかし、暗闇はいつも私たちを支配しようとしてくるものでもあります。イエスの光のもとへと引き寄せられたはずの私たちが、暗闇に追いつかれてしまい、その支配の下へと逆戻りしてしまうことも起こってしまうかもしれません。暗闇に支配されてしまえば、「暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない」とあるように、歩むべき道を見失い、苦しく辛い歩みへ迷い込んでしまいます。
「暗闇に追いつかれないように」しなさい、と今日の聖書箇所には記されていました。この言葉を聞く時、自分にできるだろうか、暗闇に追いつかれて支配されてしまうのではないか、と不安になってしまう時もあります。私たちは、暗闇の力、罪の力、この世の支配者と自分の力で戦っていかなければならないのか、と思うと少し自信がなくなってしまいます。しかし、私たちには、この世の支配者と私たちが自分の力で戦って勝利することが求められているのではありません。その戦いは、主イエスと父なる神が既に戦って下さり、十字架の死と復活によって決定的な勝利を得て下さっているのです。
イエスが求めておられるのは、その光を信じることであります。
「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」
 私たちは光である主イエスを信じることで、信じて従うことで、暗闇の中を歩くことなく、命の光を持つことができる。光である主イエスを信じて歩むなら、暗闇は私たちに追いつくことはない。弱く小さい私たちに寄り添ってくださる、恵みの御言葉が与えられています。イエスに繋がって生きる私たちには、その主がいつも共にいてくださいます。そして、その主イエスは、私たちを時に休ませ癒してくださり、歩けない時には背負ってくださり、私たちを導いてくださる主です。私たちは恐ることはないのであります。「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じて生きる」そんな歩みをしていきたいと願います。主に従って歩むため、私たちにできることを祈り求めながら歩む私たち1人1人でありたいと思います。