主日礼拝説教(2023.09.24)
「足るを知ればこそ」木村拓己牧師
テモテへの手紙一 6.1-10
本日の聖書は奴隷制について触れられます。奴隷制は有史以来、世界各地に見られました。敗戦国は捕虜や略奪により身分階層が生じました。その後も出自に関わる事柄として、地域的差別が横行し、奴隷制がなくなることはありませんでした。奴隷制に根を持つ支配構造は、現代でもあり続け、対等な関係ではない現実があるのではないでしょうか。つまりパウロの時代では奴隷制からの解放など到底成し得ない、そもそも言論の自由さえなかったのではないでしょうか。
聖書の時代には戦争が至る所で起こりました。戦争がすべてを一変させ、一家が離散させられ、地域の共同体が潰され、それまであった生活のすべてが壊される経験の中、彼らは奴隷とされました。奴隷とされた人には、かつて身分が高く、学問に秀でた人もいました。主人であった人もいたでしょう。それが構造的に抗うことのできない社会に放り出され、ユダヤ教が密接に社会とつながる中では、奴隷の居場所などほとんどありませんでした。だから、既存の社会、既存の礼拝とは異なる場所こそが、奴隷の人々が心から解放されて過ごせる場所でした。こうして彼らはキリスト教に救いの希望を見て、教会に集ったのでした。たとえ日々の働きが苦しくとも、心までは縛り付けられない場所としての教会を思うのです。彼らの生活は決して豊かではなく、自由も限られていたでしょう。それでも心を上げて日々を歩んでいたのではないでしょうか。
本日の聖書を見ても、主人がキリスト者である場合と、主人がキリスト者でない場合とに分けて語られています。奴隷の人々に焦点を当てて、教会は向き合おうとしたのでしょう。3節以下は異端な考えを持つ者について述べられます。この世の論理が教会に流れ込み、結局人は人の上に立とうとしてきたし、神様を抜きにした縦の関係ばかりが際立ち、横の関係が上手に育まれなかったことが伺えます。妬みと争い、中傷と邪推など、互いを信じられなくなり、向き合って話をすることすらできなくなったのでした。
お金を稼ぐこと自体が悪なのではなくて、他者を蔑ろにしてまでも積み立てる欲望は留まることがないことが語られています。たとえば、高利貸しで人々の生活を縛り、全財産をかすめとるような、家庭を破壊するような搾取の構造を是とする欲望を悪だというのです。その最たるものがやはり戦争であったということです。
他の手紙では、人の奴隷として課せられて生きるのではなく、キリストの奴隷として自ら奉仕の業として仕えなさいと勧めたり(エフェソ6:5)、もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、キリスト・イエスにおいて一つなのだと語っています(ガラテヤ3:28)。
ほとんどの手紙に奴隷の人々に対する勧めが語られることから、ほとんどの教会に奴隷がいたことは明らかだと言えるでしょう。
聖書は奴隷制反対を訴えてはいません。残念ながら、奴隷制の廃止を訴えることはできなかった時代だと言わざるを得ません。だからせめて教会は、人を分け隔てない、対等な関係であろうとしたのでした。イエス、ひいてはパウロたちキリスト者の小さな奴隷反対運動は、実るまでに1500年をゆうに要しました。社会に大きく根ざした奴隷制、奴隷の身分を前提として社会が形成されている根幹を変えるためには、人々の意識を変えるためには、本当に草の根の活動を進めないといけないのだと改めて思うと共に、その萌芽をイエスやパウロに見ることができるのかもしれません。
奴隷であった人々は教会に集い、共に歌い、共に祈り、共に生きました。近代に見られるように、彼らの苦しみがそこになければ、黒人霊歌もブルースもジャズも生まれなかったのです。彼らの言葉、思い、苦しみと悲しみを歌に乗せて歌い続ける。人の痛みを歌い、みんながそれに応える。コール&レスポンスによって一体となった讃美の広がり。そこに神がおられると信じて、彼らは同じ苦しみを背負って生きたことを思うのです。
誰も奴隷のことなど考えないパウロの時代においても、教会だけが考えようとしたこと。それは、言葉も文化も異なる者でありながら、背負っているものを理解し合うよう努め、互いのために歌い、祈り、共に生きようとしたのではないでしょうか。
小さなことに満足する心を持っているか。このことが今日の聖書で問われています。迷ったときには、私たちは何も持たずに世に生まれ、世を去るときには目に見えるものを何も持って行くことなどできないように、何においても、イエスが語られた愛と赦しの業を成すことに重きを置いて歩みたいと思うのです。