主日礼拝|今週のみことば

主日礼拝説教(2021.9.26)


「恵みの食卓からもれる者はいない」石田 透


コヘレトの言葉3:1-13、マタイによる福音書20:1-16


 「ここに私はいます、ホームレスの眠る街。ここに私はいます、凍える子の涙にも。
 ここに私はいます、仕事探す列の中。ここに私はいます、変革呼ぶ人々と。
 共に食卓囲み、パンを分かつ群れの中。共に私はいます、みことばに生きる人と。」

 讃美歌21:563の作詞者ブライアン・レンは、イエスさまの実像をそう表現しました。
 「ここに私はいます。苦しみを担う人々と共に私はいます」イエスさまはそのような方なのです。もちろん今、イエスさまは私たちのこの交わりの中心にもいて下さいます。それぞれに与えられた務めを一週間誠実に果たし、なお疲れや渇きを覚え、み言葉を求めて今ここに集っている私たちのこの礼拝のただ中にイエスさまはいて下さいます。イエスさまは私たちの主、救い主、良き羊飼い、導き手です。いつも私たち一人一人にみ手を差し伸べて下さいます。私たちがどんなに小さく弱く罪深い者であっても、イエスさまは私たちを赦して下さり、愛して下さいます。新たに生きる力を与えて下さいます。イエスさまはまさに私たちの主です。でも私たちの主は私たちだけの主ではないのです。私たちはイエスさまの愛を独占するわけにはいきません。イエスさまは命ある者全ての主、救い主なのです。ホームレスの眠る街に、全世界の凍える子の涙の中に、仕事を探す人々の列の中にイエスさまはおられるのです。私たちが思わず「まさか」と思ってしまうようなところにイエスさまは出かけて行かれるのです。それがイエスさまです。
 イエスさまは困難な状況にある人々のことをいつも気にかけておられました。その人たちの寂しさや苦しみを決して忘れることはありませんでした。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)とイエスさまは語りました。そしてそのように生きられました。荒れ野で生きる羊飼いたち、荒れた湖で命の危険にさらされながら魚を獲る漁師たち、都会の闇社会のようなところでうごめいて必死に生きる罪人とされた人たち、また多くの病人たち、他国からの寄留者たち、それらの人々のただ中でイエスさまは生きられました。イエスさまはそのような人々の中でこそ、救い主として活き活きと輝いていたのです。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。」(ヨハネ3:16-18)と聖書は語ります。
 神さまが望んでおられることは私たち一人一人の救いです。神さまはいつも私たちを救おうとされています。神さまは私たち一人一人が神さまにとってかけがえのない大切な存在であることを何とか伝えたいと強く願っておられました。そしてそのために最も大切な独り子であるイエスさまを送って下さったのです。イエスさまは一人一人のことを愛し、その生きる現場へと訪れて下さいます。イエスさまは漠然とした抽象的な人間存在を気にかけたのではありません。イエスさまは今を必死に生きる具体的な存在である私たち一人一人を愛してくださいます。ここにいる私たち一人一人、そして私たちの知らない、また見えないところにいる命を燃やして生きている一人一人のことをイエスさまは大切にされるのです。
 「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生れる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時、保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時、愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時。」(コヘレト3:1-8)

 私たちは時の流れの中に身を置き、日々生きています。苦労ばかり感ずるような日々の営みです。でも神さまは一人一人に命を与え、暑い時も寒い時も喜びの時も苦難の時も神さまは一人一人を支え導いて下さるのです。そうはいっても弱い私たちは不安です。私たちは時に自分は失われたものではないかとつぶやいてしまうことがあります。自分は主の食卓に招かれてはいないのではないかと絶望する時があります。しかし、全ての者が神さまの恵みを受け取ることがゆるされているのです。私たちの全てが神さまの支配の内にあるのです。だれもその御手の支配からもれる者はおりません。神さまの恵みは私たちの思いを超え、海よりも深く山よりも大きいのです。
 神さまはすべてを時宜にかなうように造られました。神さまがなされることは皆その時にかなって美しいのです。労苦の時、苦難の時さえ神さまの賜物を感ずる時なのです。

 神さまの恵みはすべての者に行き渡ります。「五つのパンと二匹の魚」でおびただしい人々の心とお腹がみたされたように、誰一人として主の恵みの食卓からもれる者はいないのです。そしてそれはすべての者に恵みを与えようとされる神さまの意思なのです。 
 マタイ福音書20:1-16には興味深い物語が記されています。朝の9時と12時と午後の3時、また5時に雇われた人たちがそれぞれ同じ1デナリオンの報酬を受け取りました。最初に雇われた人たちは憤慨して言いました。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」主人は応えて言います。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしとデナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」
私たちが生きているこの社会には、働きたくとも様々な要因により働くことが適わず、周囲から冷たい視線を浴びて肩身の狭い思いをして生きている人たちがいます。一方、マタイ福音書20:1-16には、憐れみに満ちた雇い主の労働への招きが記されています。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と言われるその雇い主は、仕事の能力や労働時間によってではなく、雇い主自身の基準で労働者を評価し賃金を支払いました。そこにはその人が必要なものを何とか与えたいという神さまの愛が示されているのです。私たちは朝からまじめに働いている人々の訴えに正当性を覚えます。最後の者にも同じように賃金を払おうとするこの雇い主には躓きすら覚えます。しかし、私たちの主は、私たちの躓き、また嫉妬を超え、その圧倒的な愛を全ての者の上に注ぐのです。今最もその助けを必要としている者のところに赴くのです。
 私たちの主は、「だれも雇ってくれないのです」と弱々しく答えるその人の辛さ、やるせなさを丸ごと受け止めて下さる方です。「一番あとに来た人たち」、人々からおいてけぼりをくってしまった人たちの寂しさと悲しみに寄り添ってくださる方なのです。