主日礼拝|今週のみことば

  聖霊降臨節第14主日礼拝 説教(2026.8.23)

「お返し」  マルコによる福音書 12章1節-12節

木村 拓己 牧師

故・谷川俊太郎さんが詠んだ「平和」という詩があります。

  平和 それは空気のようにあたりまえなものだ
  それを願う必要はない ただそれを呼吸していればいい

  平和 それは今日のように退屈なものだ 
  それを歌う必要はない ただそれに耐えればいい

  平和 それは散文のように素っ気ないものだ
  それを祈ることはできない 祈るべき神がいないから

  平和 それは花ではなく 花を育てる土
  平和 それは歌ではなく 生きた唇
  平和 それは旗ではなく 汚れた下着
  平和 それは絵ではなく 古い額縁

  平和を踏んずけ 平和を使いこなし 手に入れねばならない希望がある
  平和と戦い 平和にうち勝って 手に入れねばならぬ喜びがある

 この詩はとりわけ沖縄を歌っていると思います。沖縄慰霊の日に近い初夏に、白色や薄紅色の「花」を咲かせる月桃、戦争の悲惨さや戦後の厳しさ、平和への想いを込めた「歌」、そして「旗」ではなく汚れた下着とあるのは、当時7歳だった比嘉富子さんが掲げたふんどしで作られた白旗でしょう。古い額縁とは、「致和」扁額(ちわへんがく)と呼ばれる琉球時代に王が自ら筆をとった額縁でしょう。米軍は知らずに木材として穴を開けてしまったそうですが、現在は文化財として保存されています。戦争はいとも簡単に、そこにあった文化と歴史を壊してしまうことが歌われているのでしょう。
 その上で、平和とは実りではなく実りを支える土であり、歌ではなく今日を生きる唇であり、旗ではなくそこで生きる人々の生活の下着であり、新しい絵ではなく何年も掲げられてきた額縁なのだと言うのです。今日という日常が歴史として紡がれている、それが平和だと言い切るのです。
 花は自分だけが見るために咲かせるのではありません。歌は自分が歌うためだけに作られるのではありません。花も歌も旗も絵も、いつも自分を超えて多くの人に分かち合われるべきものであることを思うのです。そしてごくごく日常において、そこに生きる一人の思いが込められてこそ、平和は実現されることを改めて思うのです。
 本日の聖書は「ぶどう園と農夫」というイエスのたとえ話です。主人である神がぶどう園という世界を、農夫である人間に委ねたとき、あなたはどのように行動するか、神はどうするだろうか。神が与える恵みを罪深く独り占めしていないかが問われる箇所と言えるでしょうか。しかし一方で、極めて厳しい当時の社会状況を表す物語であったのではないかとも思わされます。今日はその部分を分かち合いたいと思います。
 イエスの時代、民衆に対して直接権力を振るったのは、ローマ帝国から権力を与えられたユダヤ教指導者、神殿を司る長老たちでした。エルサレム神殿は、民衆の信仰の中心であると同時に、ユダヤ全土から集められる献金という名の税金や農産物を管理する経済の中心でもありました。二日分の賃金に相当する2デナリオンが人頭税として神殿に収める義務があったと言われます。
 収穫を待つその日暮らしの人々にとって、それは命を左右する額だったでしょう。家族の人数分を払えなければ負債となり、その負債が積もれば、先祖から受け継いだ畑を手放し、さらには家族を身売りさせ、奴隷となって行く道。侵略者であるローマ帝国は、多くの民衆はそうやって一家離散に向かわせ、国は再起を図ることすらできない道をたどらされていくのです。
 そうした中、エルサレム神殿や実権を握る祭司長、長老、律法学者たちは、ユダヤ教の生き残りをかけて懸命に動きます。神殿税を払えない農民たちの債権者にもなりました。債務保証として先祖伝来の土地が差し出され、彼らの土地はかき集められて大農場に生まれ変わっていったのです。その代表がここにあるようなぶどう園なのです。
 つまり、神が与える恵みを独り占めしていないかをよくよく考えなさいという譬え話であると同時に、極めて当時の現実をよく表した言葉をイエスは語ったのだと思うのです。だとすると、主人と農夫に当てはめるべき存在が全く逆転してしまいます。
 罪深い富める主人と、理不尽さに憎悪の念を抱く貧しき農夫となるのです。最後は、不可解極まりないものとなります。抵抗した農夫たちはぶどう園の主人に殺される、と結ばれるからです。貧しい者が負債を背負うだけ背負わされて殺され、富める者がのうのうと生きるという結末になってしまうのです。しかし、「これこそが私たちが生きている世の現実なのだ」というイエスのメッセージであるようにも思います。
 本来的には、神が世界を私たちに委ねていることをたとえる物語です。主人である神は、私たちがいただく実りのためにすべてを準備してくださった。着るものも食べるものも住む家も、育ててくれる人、共に生き、共に働く仲間、私たちはそのすべてが神から与えられている。あとは実りを喜びと感謝のうちに収穫すれば良いという状態で私たちは世に生まれてきたはずなのです。
 しかしそれが失われている現実、人と人が奪い合い、国と国が奪い合い、それらを守るために垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てて、自分たちが掌握しようとする人の現実を目の当たりにするのです。それでも主イエスは私たちのために十字架の道を歩まれました。この神の愛に触れる時、今与えられている自分の平和を一度お返しして、見つめるべき課題があると思わされます。「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか」と主イエスが語られた言葉(9節)、多くを背負った者が歌った歌、語り部の言葉に心寄せて、平和とは何かを考え続ける者でありたいと思うのです。