主日礼拝|今週のみことば

 聖霊降臨節第21主日礼拝 説教(2026.10.11)

「転ばずにいられるか」  ダニエル書 3章13節-26節

小林 恭平 牧師

 キリスト教の歴史は迫害なしには語れません。初期キリスト教の時代には、ネロ皇帝からディオクレティアヌス帝までのおおよそ250年もの間、迫害が続き、多くのキリスト者が棄教を迫られ、従わない者は殉教しました。日本においては、豊臣・徳川政権の時代に禁教令が敷かれ、多くのキリシタンが弾圧を受けました。江戸幕府の時代には、踏み絵や檀家、五人組の制度によってキリシタンがあぶり出され、拷問によって棄教を迫られました。そして、従わない者は処刑され、殉教したのです。なお、この時代、奉行所は弾圧のために「俵責め」という拷問を行いました。これは、俵に受刑者を押し込めて首だけを出させ、山積みにしたり鞭打ったりするというものです。この拷問を受けた者は、責め苦に耐え切れず俵から「転がり出て」棄教したことから、棄教したキリシタンのことを、当局は「転びキリシタン」と呼びました。
 日本におけるキリスト教への迫害は、戦時下にもありました。当時、日本基督教団と合同していたホーリネス系の教会では、治安維持法によって百名を超える人々が検挙されました。彼らは、不起訴処分となった者であっても、おおよそ一年前後勾留され、検挙された人々のうち75名が起訴され、そのうち19名は執行猶予なしの懲役刑を受けました。そして、そのうちの7名は、獄中での衰弱によって、獄中ないし出獄後に殉教したのです。なお、この大検挙が行われた際、日本基督教団は、ホーリネス教会の人々が検挙されるのを黙って見過ごしました。それどころか、検挙された牧師たちに自主的な辞任を迫り、迫害に加担してしまったのです。

 キリスト教が迫害にあったように、その前身であるユダヤ教においても迫害がありました。それを物語るのが、本日の箇所であるダニエル書の物語です。ダニエル書には、ユダヤの歴史の中でも、特に信仰の面で苦境に立たされたバビロン捕囚期の物語が収められています。その主人公は、ダニエルという青年と、その仲間のハナンヤ、ミシャエル、アザルヤです。
 彼らはユダの王族や貴族の子どもでしたが、バビロニア王国に征服された際に、ネブカドネツァルに仕える人材とするためにバビロニアへ連れて行かれました。そして、バビロニア風の名前が付けられ、バビロニアの言語や文書を教えられ、肉類や酒を与えられ、バビロニア人として養育されたのです。
 彼らは神から知恵と才能を恵まれ、宮廷の中で地位を獲得していきます。しかし、それをよく思わない政敵たちがいました。政敵たちは、青年たちを貶め、葬り去ろうと画策していました。そんなある日、王が、自らが造らせた黄金の像にひれ伏して拝むようにという命令を、国民に通達しました。これをチャンスと考えた政敵たちは、次のように考えます。「きっとイスラエル人であるやつらは、王の命令に抗うだろう。そのことを声高に叫んで王の耳に入れさえすれば、彼らは破滅するに違いない」。そうして彼らは、実行に移しました。
 その結果、王は激怒し、三人の青年を呼びつけます。そして、「もし今この像を拝むなら許そう。だが、もし拝まないなら、直ちにお前たちを燃える炉に投げ込ませる」と、最終通告を言い渡したのです。しかし、それでも三人の青年は、王ではなく神に仕える者として、この命令を拒みました。その結果、彼らは炉に突き落とされるのですが、不思議なことに、彼らは天使によって守られ、炉から無事に生還します。この奇跡を目の当たりにした王は、「まことに、人間をこのように救うことのできる神は、ほかにはいない」とイスラエルの神をたたえ、二度とこの神をののしってはならないと命じました。そして、生還した三人は、バビロニアでますます重要な地位に就いたのです。

 この物語のテーマは、異国の地にあって、いかに自分たちの信仰を保つかということです。三人の青年たちは、強く揺るがない信仰によって偶像崇拝を拒み、自分たちの主は神ただお一人であるということを貫きました。それは、たとえ炉に投げ込まれたとしても、神は自分たちを救い出してくださると信じていたからです。しかし、彼らの覚悟はさらに強いものでした。彼らは「たとえ、神が私たちの命が奪われることを見過ごされるとしても、それでも私たちの神、すなわち祖先をエジプトから導き上り、今も共におられるこの神以外を拝み、裏切るような真似はしません」と宣言したのです。

 このあまりにも眩しい信仰は、今日まで聖書に収められ、語り継がれています。迫害にあったキリスト者たちもまた、殉教もいとわないほどの信仰を持っていました。彼らの信仰が尊ぶべきものであるというのは、揺るがない事実です。しかし同時に、その信仰があまりにも美化されたために、殉教こそが信仰の究極であるという思想が生まれたことには、留意しなければなりません。というのは、愛なる神は、ご自分の愛する信徒たちが、信仰のために命を散らすのを見て喜ばれるのだろうか、という疑問が生じるからです。

 私たちを無条件に愛し、私たちのために、同じように愛する独り子をこの地上に遣わされた神。私たちが一人として滅びることのないようにと、自らを捧げ、十字架を背負い、十字架に架かられたイエス。今も私たちの心に寄り添い、共に喜び、共に泣いてくださる聖霊。その三位一体の愛なる神が、信仰を貫こうとして自らの命を献げる姿を見て、喜ばれることはないでしょう。むしろ、心が引き裂かれる思いをなさるのではないでしょうか。
 仮に神の心を勘定に入れないとしても、殉教に至るまでの信仰を持つことは、非常に困難なことです。たとえ自分の命だけなら懸けることができても、残される者や、人質とされるかもしれない者のことを思えば、私は「転ばずにはいられない」でしょう。

 今日においても、過去の迫害・弾圧とは次元が違うとはいえ、キリスト教はいまだ疎外されているという現実があります。日本のクリスチャンは、実質的には1パーセントにも満たない、極めて少数のマイノリティな存在です。地方に行けばその傾向はますます強くなり、その中で信仰を貫くのは非常に困難なことです。そうした中で、時に信仰を貫き通せないことがあるかもしれません。疎外を恐れ、神を第一にすることができない時があるかもしれません。しかし、それでも主を見上げる心だけは、捨ててはなりません。たとえ、傷つくことを恐れて転んでしまうとしても、主はその心をご存じです。その主の赦しと愛に信頼し、主から目を離さずに歩んでいきたいと願います。