復活節第3主日礼拝説教(2026.4.19)
「良い羊飼い」 ヨハネによる福音書 10章11節-18節
木村 幸 牧師
「わたしは良い羊飼いである」とイエスは言うが、どう「良い」のか。かつてイスラエルに栄華の時代を築いたダビデ王は、元来ベツレヘムの羊飼いだった。
そんなダビデが詩篇に多く残しているのは、彼自身が描く理想の羊飼いの姿。羊たちを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせる羊飼い。それは力による支配ではなく、正しい知恵と、配慮による支配である。
「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とイエスは言う。私たちの思う牧歌的な情景よりも遥かに、昔の羊飼いの暮らしは厳しいものだった。年中羊の群れを追って動き回り休める日はない。襲い来る獣や強盗と戦って、羊飼いが命を落とすことも確かにあった。それでも日々一匹一匹の羊を数え、導き、養い、共に歩き続けることが、羊飼いとして生きるあり方なのである。
主イエスは、ご自分の羊を知っておられる。何十匹の群れ、何百の群れ、何千何万、何億であっても、一匹一匹の全てをご存知である。個性豊かな羊の一匹一匹を主ご自身が作られたからだ。そして羊もまた、主を知っている。羊は強くも賢くもなく、身を寄せ合わなければ忽ちに弱ってしまうものだが、信頼する羊飼いの呼び声を聞き分けることができる。他の声には聞き従わないのだ。
しかし羊たちが羊飼いを否定し、声を忘れ、導きを失い、散り散りになってしまえばどうか。バラバラに逃げ惑い、怯え、パニックになって傷つけ合う羊たちを見る時、主の心はどれだけ傷つくだろうか。人の世は事実そうした状態である。私たちも時にそうした迷える子羊の一人だ。主が羊たちを愛しておられればこそ、その悲しみは計り知れない。
そんな嘆き悲しみのうちに、イエスは命を捨てられた。そうして愛する羊達の弱さによる罪を贖ったのは、ただただその羊達に元通り穏やかに、健やかに、幸せに生きてほしかったために。私たちはこうした主の深すぎる愛に誰も十分には応え得ない。もう二度とその御声を忘れることのないように、心を向け、耳を澄まし、足跡を追い続けることに努めることしかできないだろう。
主が命を捨てられたといっても、それは失われたのではない。主の命はより多くの人を救うために、イエスの体を離れて私たちに与えられたのだ。それが失われることは決してなく、まして誰かに奪われたりすることなど一度も無い。私たちはその与えられた命を、独占して生きることはできない。今ある囲いの外へとより多く広く分け与えてこそ、この命が主の愛によって生きていることを証するのではないだろうか。
