「始まりと終わり」木村拓己牧師
ヨハネの黙示録 1.4-8
歴史を振り返る時、その時々に声を上げた活動家や政治家、思想家の存在がいたことを思います。20世紀を動かした人は誰であったか、21世紀の今を動かしている人は誰なのか。その裾野にはそうした考える人々があまねく広がっています。
世に生きるすべての人に共通する事柄があるものなのか、ないものなのか。何かを考える時には当然そこに賛否があり、立場があります。ですからみんなが同じ意見となることは非常に難しいことです。あるいは同じ目的であっても、多少のリスクをとってでも早く進めたい人もあれば、リスクを極力抑えてゆっくり進めたい人もいるでしょう。でもどちらも同じ方向を向いているという事実は変わりません。
例えば平和を考えるとき、暴力を伴う平和と暴力を伴わない平和があるでしょう。現実に世に暴力が存在する中で、非暴力に基づく平和の実現は非常に困難だと言わざるを得ません。一方で、ガンジーやキング牧師など、多くの非暴力を掲げた人々の言葉が今日もなお私たちの心に根付いていることもまた事実です。
国は違えど、20世紀を共に生きた者だから根付いているものなのか、あるいは21世紀に生まれた者であっても、同様に共感できるものなのでしょうか。イエスの言葉もそうでしょう。クリスチャンだから理解できるのか、クリスチャンじゃなくても理解できるのか。言葉はどのように人の心に根付くのでしょうか。
生き物を育てるように、樹木が育つように、一年間を通じて熟成されていくような思いや考えが自分の中にあったでしょうか。一年間、自分も生きる一つの命として、刹那的ではなく、何か目標を持って積み重ねてきたことがあっただろうか。その視点から見る平和とはどんな意味を持った言葉なのでしょうか。
耳から入ってどこかに流れていくような言葉ではなく、それが自分の内で泉となっていくような、自分の歩みの根幹となっていくような、そんな熟成されていく思いや考えがみなさんにも、私にも今日与えられればと願います。
さて、本日の聖書では「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」、アルファでありオメガである神とあるように(英語で言うところのAとZにあたるギリシャ語アルファベット)、神は歴史における始めであり、終わりなのだという幻を通して神に対する信仰告白が語られています。
「雲に乗って来られる方」(7節)を見上げるすべての人々の姿は、「これはわたしの愛する子、これに聞け」と語られたイエスの洗礼の場面、荒れ野を旅するイスラエルの⺠を導いた雲のイメージに重なる部分があるように思います。
また、「わたしたちを王とし」(6節)は「王国」とも訳すことができるでそうです。つまり信仰者が偉くなったのではなく、神の国の一員として福音を語り、神の国という畑を、時間をかけて育て、その実りを分かち合う喜びが語られていると言えるでしょうか。
この黙示録の土台には、当時の教会に見られた精神的な衰えに基づいていると言われます。それは、教会と国家間での緊張と対立の増大、政治的軍事的な圧力、迫害の中を生きる教会、しかも内向きには「そこまでしてキリスト者として生きるのか」という問いに常にさらされていました。いわば、政治的にならなかったために、国家に迎合しなかったために、迫害は引き起こされたのでした。皇帝を神とすることが国民の義務であり、これは日本においても過去であれ、現在であれ、「一つの方向を向かされている」枠組みがあります。
この黙示録は、黙示、つまり神が人の目に隠していた真理を神が明らかにする事柄が記された書です。そしてこの使信は、最後には神の勝利があるということを語るのですが、言い換えれば、それまでには恐ろしいと思える苦難さえも待ち受けていることを意味しています。その果てに神が勝利し、神によって地上に平和がもたらされる救いの歴史の到達点、救いという希望が語られるのです。
この点について、ガンジーの言葉を借りれば、「私は失望したとき、歴史全体を通していつも真理と愛が勝利をしたことを思い出す。暴君や殺戮者はそのときには無敵に見えるが、最終的には滅びてしまう。どんなときも、私はそれを思うのだ」という希望を思います。
世の暴力は、ガンジーやキング牧師といった人々、何よりイエスの命を奪い取りましたが、彼らが見た希望までを奪い取ることはできないのです。その希望は彼らのものだけではなく、すべての人のものでした。またそれは、敵に対する復讐によって成し遂げられるものではなく、その生き方を通して示された希望の種が蒔き続けられ、育って初穂となり、そしてその一粒が地に落ちたことで多くの実りをもたらされてきたのではなかったでしょうか。
この黙示録が語ること、ひいてはキリストが語ることは、「敵は蹂躙される」という希望ではありません。そんな暴力的な論理ではないのです。「それでも私たちはどのようにありたいか、どのように生きたいのか」という問いが与えられることこそが、恵みの希望なのだと思うのです。
私たちは見えないものに希望を置きます。しかしそれは見えない心の内に隠されていくものではありません。私たちの口を通して見える希望となっていくのです。それは、歴史の中でイエスの誕生という、希望が見えずに苦しむ私たちに対して、目に見える希望として神が与えてくださったクリスマスの出来事を喜びをもって伝えた信仰者の歩みと同じなのではないでしょうか。
信じて行動した者たちは、そして今日の聖書で、雲に乗ってこられれる方を仰ぎ見た、すべての人々の目は、「一つの方向に向かされているのではなく、自分たちでその方向を見ることを選び取った人々だった」のではないでしょうか。今おられ、かつておられ、やがて来られる主に導かれて新しい一週間をも歩んで参りましょう。