主日礼拝|今週のみことば


主日礼拝説教(2025.01.19)


「漁る師」木村幸


マタイ福音書4.18-22


 ヨハネ以外の三つの福音書に記されているこの箇所、実はこのイエスと初めの弟子たちとの出会いこそが教会のはじめだとする説もある。一般に教会の誕生といえばペンテコステだと言われるが、今日の箇所の過程の中に、教会に必要なエッセンスが一通り含まれているという考え方ができるのだ。
 つまり、初めに主からの招きがあること。招かれた者は、それまで自身の生きてきた経験則による判断を捨てて、御言葉に従っていること。そして御言葉に聞き従った者は、宣教のわざへと遣わされていくこと。これらが実は、教会の基礎となる働きの全てなのである。教会は建物である必要はない。主の招きがあり、その御言葉に聞く人が二人以上あれば、そこが教会となる。信じた者を宣教へと送り出すことが教会の目的だと考えれば、確かに彼らのこの場面には、教会の原型を見ることができると言えるだろう。
 イエスは既に漁師であったペトロたち四人に「人をとる漁師にしよう」と声をかけている。「漁る」と書くとき、一般的にそれは「あさる」と読む。この言葉は「読み漁る」「買い漁る」などと使われるように、たくさん掴んで猛然と消費するという意味がある。一方で、「すなどる」という読み方もある。この言葉は魚や貝を取るという限定された意味になる。イエスが人をとる漁師にという時にイメージしていたのは、大量にとらえて消費するような「あさる」漁なのか、具体的な対象を定めてアプローチするような「すなどる」漁なのだろうか。
 この有名な場面と「人間をとる漁師」という言葉のイメージと相まって、漁は大漁であればこそ良いという解釈を私たちはしてしまいがちである。教会に人が多く集まるのはもちろん喜ばしいことだが、実際の漁業では手に負えないほどの大漁は獲り手の身の安全さえ危うくすることがある。大漁の人をとらえてしまったとして、教会はどれだけ正しく対応できるのだろうか。
 私たちの主は誰でもいいと思って不特定多数を招くのではない。イエスは人格ひとつひとつと出会い、そこで関係を作ってゆかれる方である。イエスは闇雲に網を投げてまとめて攫い、捕まえたものを徒に傷つけてしまう「あさる師」ではない。ただその人を捉えるためだけに心を向けて赴いてゆかれる、「すなどる師」であるのだ。その主の姿に倣いたいと願う時、私たちの在り方はおのずから定められてゆくのではないだろうか。
 私たちは日曜に教会に集い、そこからそれぞれに出かけてゆく。この世の荒海に勇気ある小舟を漕ぎ出して、出会うべき魚のもとへと自ら旅をする、私たちもそんな漁師であることができればと思う。どんな場所であれそこで出会う一人のために時間と心を傾けたい。大漁を得るためではなく、ただその人を得るためである。