復活節第2主日礼拝説教(2026.4.12)
「平和があるように」 ヨハネによる福音書 20章19節-31節
小林恭平 牧師
私たちは使徒信条の中で、「全能なる神を信ず」と告白しています。しかし、時としてその全能性を疑いたくなるような出来事がこの現実には多くあります。争いの止まない現実を見るとき。不条理な悲しみに襲われる現実を見るとき。主なる神は私たちを愛しておられるというのに、なぜ私たちがこんな目に合うのをお許しになるのか。神は本当に全能なのか。それとも全能だが信じるに値しない存在なのか。そう考えざるを得ないこともあるかもしれません。そんな「神は全能である」という命題に対し、時として然りと言い切ることのできない現実を前に、私たちはどう向き合えばいいのでしょう。
ヨハネによる福音書20章19節-31節は、この迷いに一つの道を示しています。この箇所には神の全能性が顕れています。それは言うまでもなく、イエスの復活の出来事です。19節以前で、イエスはマグダラのマリアの前に復活の身体を伴って現れました。十字架に架かり死んだはずのイエスと奇跡の再会を果たしたマリアは、その喜びの知らせを弟子たちに伝えました。しかし、当の弟子たちはそのことを全く信じようとはせず、自分たちもイエスのように捉えられ殺されるかもしれないと恐れ、固く閉ざした扉の中に閉じこもっていたのでした。
弟子たちはかつて、イエスを信じ、自分たちの仕事をなげうって、人生をかけてイエスについて来ました。それは、「この人こそ、この自分たちを抑圧する世界をひっくり返すメシア(救い主)に違いない。この人について行けば、自分たちにも逆転の人生が待っているだろう。」そんな期待を抱いて、弟子たちはイエスについて来たのです。弟子たちがイエスに期待していたメシア像は、自分たちイスラエルの民に解放をもたらす勝利の王でした。しかし、その結末は十字架刑だったのです。
十字架刑は、この世で最も残酷な処刑方法の一つです。その理由は、釘付けられた手足の痛みと、肺にたまる体液で溺れるような苦しみを味わわせるだけでなく、受刑者を恥さらしにし続けるためです。イエスは、腰布すらまとうことを許されず、全裸で、大衆の目に留まりやすいゴルゴダの丘で恥さらしにされたのです。さらにイエスの十字架には、「これはユダヤ人の王」という罪状が掲げられていました。これは、メシアが「王」を意味することからとられており、あまりにもひどい皮肉にまみれた罪状でした。そんな十字架刑にイエスが書されたという事実は、イエスの尊厳とともに、彼に従いついてきた弟子たちの尊厳も破壊する出来事だったのです。
そうして、尊厳を侵された弟子たちは、固く閉ざした暗い部屋に閉じこもるほかなかったのです。そんな閉ざされたはずの部屋の中に「あなたがたに平和があるように」という声が響きました。それは、十字架にかけられ死んだはずのイエスでした。その瞬間、暗い部屋のように固く閉ざされた弟子たちの暗い心には、再び希望の光が灯ったのです。イエスが十字架にかけられ、恥にまみれて死んだその事実は消えません。それでも、それをはるかにしのぐ復活のいのちの希望が、弟子たちに示されたのです。
「あなたがたに平和があるように。」この言葉は、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14:27-28)というイエスの言葉の成就でした。イエスは、よみがえりの永遠のいのちをもって、この地上に真の平和をもたらしたのです。それは、死が終わりでも永遠の別れでもない。その先に、この地上の生以上の喜びか確約されている。そんな平和なのです。
神の全能性は時として、私たちの願う通りにならないこともあるでしょう。神が全能だと信じがたいようなことが降りかかるかもしれません。あるいは、神が本当に全能だというのに、こんな悲劇を許すのなら、もう神のことを信じられない。そう思うこともあるかもしれません。それでも、「あなた方に平和があるように」。そう告げるキリストを通し、全能なる神は私たちに真の平和を、よみがえりの永久のいのちを等しく与えてくださるのです。神の平和はすでに、与えられています。その希望を胸に、平和の使者として今週も歩む者として生きてまいりましょう。
