主日礼拝説教(2025.09.14)
「唯一無二」 マタイによる福音書 13章44節-52節
木村拓己 牧師
13章には7つのたとえ話が綴られています。種を蒔く人、毒麦のたとえ、からし種のたとえ、パン種のたとえ、そして本日の3つのたとえ話。これらが表すのは、天の国についてです。
始めの二つのたとえ話は、隠されていた宝が、探していた真珠が見つかるお話です。旧約聖書の箴言やヨブ記を見ると、知恵について宝や真珠にたとえられています。偶然発見した前者と、探していて見つけた後者の違いがあります。思いがけず主に出会う前者、主を尋ね求めて礼拝にやってくる後者と言えるでしょうか。反対に共通点はどうでしょうか。それはどちらも喜び躍ったという点です。出会い方は違っても、どちらもイエス・キリストに出会った、天の国に出会ったということではないでしょうか。
三つ目は漁師の網のたとえです。後半では良いものは器に入れ、悪いものを投げ捨てる。この終末論的な言葉をどのように受け取ることができるでしょうか。
先週夕礼拝では毒麦のたとえを読みました。やはり良い麦と悪い麦が分けられる話です。また先週の聖書研究祈祷会では、創世記18章を読みました。ソドムとゴモラを滅ぼしにいく神を前に執り成すアブラハムの話です。「正しい者を悪い者と同じ目に遭わせることは神の正義にそぐわない」とアブラハムは言いました。
旧約聖書ではエゼキエルやエレミヤは立ち帰ること、一人に目を向けて、一人のゆえに赦す神を預言しています(エゼキエル33章、エレミヤ5章)。イエスもまた、そうした信仰に基づいて99匹と1匹の羊のたとえを語ったことでしょう(マタイ18章)。ここに集うみなさんも、こうした人一人は大切だと宣言するイエス、旧約聖書の御言葉に触れると心地よいのではないでしょうか。
しかし、本日の聖書はそれを許してくれないのです。マタイだけが描くのが毒麦のたとえと漁師の網のたとえです。しかも、言い伝えられてきたたとえ話に明らかにマタイが加筆していると言われます。
網が湖に投げ下ろされ、いろいろな魚を集める。漁師である神は良い者も悪い者も集めて選り分ける。本来はここまでだと思われます。毒麦のたとえでも、畑に良い麦を蒔いた。すると毒麦が現れます。「抜き集めますか」と僕が質問すると、主人である神は「いや毒麦を集める時に、良い麦まで一緒に抜いてしまうかもしれない。だから育つままにしておきなさい。」と言います。本来はここまでなのです。網の中にいるいろいろな魚と同じように見ている神のまなざしがあるのです。
燃え盛る炉や裁きの部分を外すと、毒麦のたとえといろいろな魚のたとえはよく似た内容となります。天の国には良い者と悪い者が共存しており、神は育つままにしておきなさいと語られた寛容さが現れてくるのです。
このように、本来のメッセージはもっとやわらかいものであったと改めて思うのです。それがマタイによって加筆され、マタイの神学的意図が上塗りされている。つまり悪い者に対する裁きを強調しているということです。ですから、13章のたとえ話に違和感があるとすれば、それは「イエスの言葉につまずいているというよりは、マタイの神学的意図につまずいているという方が正しい」と言えるのかもしれません。それでもイエス・キリストを表す一つの信仰告白なのです。
こうして、いろいろな魚、麦と毒麦が共存するままにされた神の寛容の御心は、一転して終末の時には裁きによって善悪が峻別されるという結末を迎えました。「結局認めてもらわなければ、天の国には行けないのか」という諦めが心に響く思いがします。
終末の時、裁きの時、良い者と悪い者が選り分けられる時は来るのかもしれません。しかし、イエスはそれがいつかはわからないとも語っています(マタイ24章)。だからイエスは小さくされた一人を探して訪ねたのではないかと思うのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と宣言されたイエスを思うのです(マタイ9章)。
イエスの来訪に希望を見出し、すべてを投げ出して躍り上がってイエスに従った人たちを私たちは何人も福音書の中に読み込んできたのではないでしょうか。これこそが、本来の神の寛容さと天の国を言い表すメッセージであったと思うのです。
そのことに気付けず、十字架にかけてしまった群衆たち、信じることができずに逃げ出した弟子たち、武力をもって侵略していた帝国の者たち、権威をかさに意を唱えるものを排除した宗教指導者たち、あるいは、後世の状況に合わせて書き加えざるを得なかった信仰者たちを思います。
それでも人は変わることを信じて、社会は変わることを信じて、イエスは歩き続けたのではなかったでしょうか。今日私たちもまた、積み重ねてきた自分の経験と、イエスと出会うことによって与えられた大きな喜びを糧に歩みなさいと呼ばれているのではないでしょうか。主の言葉に支えられて新たに歩み直すことへといつも招かれているのではないでしょうか。思いがけず、あるいは探し求めた先で見つけた唯一無二の宝、今日のイエスとの出会いを喜びましょう。