主日礼拝|今週のみことば


主日礼拝説教(2024.2.25)


「私がそうなのです」木村幸牧師


ヨハネによる福音書 9.1-12


 この箇所の弟子たちの問いは、この時代の人々にとってごく当たり前の認識に基づいたもの。生まれつきのハンディキャップというものが、本人/親/祖先の罪の結果であるとする思想は、古く十戒の中にその根拠を持つ(出エジプト記の20 章5節以下等)。人の罪の証はその子孫にまで現れるというのがユダヤの人々が古来教えられてきた道理だった。
 それに対するイエスの答え、それは誰の罪でもなく、神の業がこの人に現れるためである、という言葉は私たちが今感心する以上に衝撃的なものだった。何千年と守り抜いてきた主なる神の教えに真っ向から反するものだったのだから。
 そのイエスの答えの他に注目したいのは9節。人々が癒された人を囲み、この人が本当にあの目が見えなかった人なのかどうかと問答している時に、その人は声も高らかに「わたしがそうなのです」と宣言する。この言葉は原語において、「エゴー・エイミ」と記されている。
 この言葉は英語でいうとI am(私は〜です)にあたり、この福音書において特徴的に用いられる言葉である。多く見られるのは補語を伴う形で、
・私は命のパンである ・私はよい羊飼いである ・私は復活である ・私は命である ・私は道である ・私は真理である ・私はぶどうの木である 等。これらの全てがこのエゴー・エイミの構文を使って表されたもの。
 そして補語を伴わない形は本来不自然な構文であるが、不自然なままに敢えて用いられるのがむしろ意味を持っており、それは「神の名」を暗示すると解釈される。つまりそれは出エジプト記においてモーセが燃える柴を通して召命を受けた折に、神の名を問い返した時、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と主が答えられたその言葉を暗示するのである。
 目が見えるようになったこの人は、自らが神であると名乗っているつもりは決してないだろう。本人かどうかと騒ぐ人々に対して、「I am(わたしです)」と返答しているにすぎない。しかし本人も知らないうちに、この人を癒したのは主なる神そのものなのだということが、その口を通して宣言されているのだった。

 この箇所は洗礼の重要性を伝える箇所であったとも考えられている。洗礼を受ける前の人間は、真理が見えていないという状態にあり、それはまた闇の中にあるという状態でもある。そして神からの働きかけによって目が開かれた人が、イエスという真理を見ることとなり、また光の中を生きることになると象徴されているのだ。
 この9章の終わりでイエスは、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになると説く。癒された人の周りで騒ぐ人々は、目が開いているのに真理が見えていないのであり、ここに既に見える者と見えない者の逆転現象が起きている。
 13節以降には、はじめはイエスが誰なのか「知りません」と答えていた癒された人が、人々と問答するうちにはっきりと自らのうちに信仰を見出していく、そのドラマチックなプロセスが描かれてゆく。見えるようになったこの人は、これまで養ってくれた両親と分かたれ、ユダヤ教の会堂からも追い出されて、信仰によって自ら歩み出すこととなる。自立した一人の人間として、イエスに従って生きてゆくのである。
 そこまでの物語を含めて原始教会の時代の人々が「洗礼」というものの意味を捉えていたのだと理解できる。イエスによって全き人間とされて、孤独を恐れず自立して信仰を持って歩むのだと、著者らは同胞たちに教えたかったのだろう。
 しかし今この時代に至って同じ箇所を読む時、その頃の解釈をそのまま受け入れることに違和感を覚える。視覚しょうがいを持って生まれた人がしょうがいを取り除かれることは、果たして癒しなのだろうか? その人がそれまで懸命に生きて来た人生は、ただ闇だったと言われるのだろうか。 
 その考え方はしょうがいのある人は健常者よりも劣っている、あるいは不幸なはずだという視点に基づいている。それは心身が完全であることが罪のないことのしるしだと定めていた古いユダヤの思想から脱却し得ないものである。
 イエスはいつも魔法のように人を治したわけではないのではないか。つまり、見えない人が見えるようになるのではなく、隣にいて、代わりに見て伝えてくれる友が与えられること。歩くことができない人には、必要な時に肩を貸してくれて、一緒に歩いてくれる友が与えられること。孤独な人には、温かい人の輪が与えられること。そういう奇跡もおおいにあったと考えられまいか。
 自立して一人で立派に生きなさいなどとイエスは一度として言ったことがない。一人一人にそれぞれの欠けがあり、それを抱えたままで、他の欠けを持つ人々と寄り添い合い補い合う人々がイエスのもとに集っていた。目が見えない「のに」他の人の笑顔がわかる、歩けない「のに」他の人と共に進むことができる、欠けだらけ「なのに」心が満たされている、そうしたものがイエスの与える奇跡であり、困難を抱える人々を通して表される神の業ではなかっただろうか。
 イエスに出会って導かれた人は、その人の存在自体が何より主を証しする。その導きが誰の目にも明らかな劇的変化ではなかったとしても、自分自身が目を開いたことを覚えているのならば、「私がそうなのです」と、誰もが叫んで良いはずだ。
 今の私たちは果たして、主の御心が見えているのか、見えていないのか。目を凝らして誰にどこから罪があるのかと探すのではなく、目を閉じて深く自分自身の内を見つめ、何度でも砕かれて歩み直す私たちでありたい。