主日礼拝説教(2025.12.14)
「荒れ野で叫ぶ者の声」 イザヤ書 40章1節-11節
木村拓己 牧師
「自由に向かって歩き続けてきた国民の長い旅の物語」。こう表現したのは今年ノーベル平和賞を受賞したベネズエラのマリア・コリア・マチャドさんです。ベネズエラという国の成り立ちを見ると、軍事力が政治に深く関わってきました。900万人が国外へと避難したと言われます。
私が考えさせられているのは、マチャドさんについてではありません。今も家族が離れ離れであり続けていることです。自由に向かって歩き続けてきた国民の長い旅の物語とは、現在進行形であり、未だ実現していないのです。
マチャドさんは言います。「私たちは、自分自身に背を向けることを拒むとき、痛みを恐れず真実と向き合うとき、人生で本当に大切なものへの愛が、忍耐と勝利の力を与えてくれるとき──初めて自由を手にするのだ」と。彼女は混乱と緊張、不安と恐れという荒れ野から、私たちに呼びかけているのではないでしょうか。
本日の聖書も呼びかける声です。それが誰であるかは見えてこないのです。きっと誰であるかは重要ではないのでしょう。呼びかけられていることを知ることが大切なのではないでしょうか。1節は「慰めよ、慰めよ」という言葉に始まります。「呼びかけよ、呼びかけよ」「声をあげよ、声をあげよ」「見よ、見よ」とつなげられていくのです。
福音書にも引用されるこの箇所。洗礼者ヨハネも荒れ野で声を荒げて語った言葉です。故郷を失い、寄る辺なき民が慰められる希望。それは主のもとに帰ろうという歌です。今この時、家に帰ることができない人々を思い起こします。災害のために、放射能のために、戦禍のために、人間関係のために。
ここで道が開かれるという言葉は、主によって慰められることと同じ意味なのだと思います。胸の奥にしまいこんだこの悲しみにも神はやってこられ、主の慰めを「見よ、見よ」と語りかけられるのです。
世は移ろうけれども、「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」ことを思うとき、いかなる現実も、いかなる絶望を前にしても、神の言葉を無効にすることはできないことを知らされるのです。何度でも私たちは慰められ、呼びかけられ、奮い立てられ、目覚めさせられるのです。
先立って行かれる主が御腕をもって集め、幼な子から小さくされたものをも抱いて、私たちを導いて行かれる。私たちの悲しみに触れるために主が世にこられたことを思うのです。そして私たちの驕りに触れるために世にこられたことを思うのです。荒れ野で叫ぶ者の声は、私たちに呼びかけます。気づかせてくれるのです。荒れ野に主のために道を通せ、と。私たちも荒れ野と隣り合わせなのです。只中にいるかもしれません。そこに主の慰めと栄光が現れるのです。
救い主の誕生を通して、その生涯を通して、そして誰かの口を通して、私たちを目覚めさせ、驚かせ、そこに見えてくる神の御心に触れるのです。主の風に押し出され一人として、主の栄光を表す一人として今日を生きていきましょう。そして来週クリスマス総員礼拝を共に迎えましょう。
