主日礼拝|今週のみことば


主日礼拝説教(2021.10.17)


「さあ、つながろう」 井殿 謙


マルコによる福音書9:33-37


 本日私たちは、教育週間礼拝を守っています。先日、お便りを配布させていただいて、ポスターも礼拝堂の入り口と、掲示板に掲載させていただいていますが、教育週間礼拝では、毎年、日本キリスト教協議会NCC教育部が出している「平和のきずな献金」をしています。日本や海外、世界中で、困っている人が、具体的にどのような状況に置かれているのか、ということをこの後の礼拝後に学びの時を持ちます。そして、その人達のために、献金をし、祈る、そんな時を守っています。
 本日の説教は、「さあ、つながろう」と題させていただきました。これは、本日私たちが守っている教育習慣礼拝で、テーマとしている標語であります。「さあ、つながろう」と言いましても、今、私たちは人とどのような「繋がり」を持つことができるのか、少し迷ってしまうような状況の中、日々を過ごしています。新型コロナウイルス感染症の影響で、「人との繋がり」というものが絶たれている、そんな状況があります。この原宿教会でも、今回の教育週間礼拝が、合同礼拝として守れなかった、ということを始め、教会の様々な行事が出来なくなってしまったり、幼稚園の行事も中止や延期、その他学校や職場、日常生活でも多くの制限がなされてきました。教会での様々な交わりの時が持てなかったり、日常でも食事に行くことが難しい、病院のお見舞いにいけない、家族と会えない、などの状況が続いています。もはやこの状況がスタンダードになりつつある、というほどにまで、今の私たちの生活に影響を及ぼしています。それに慣れていくと同時に、気がつくと、人との「繋がり」がだんだんと薄れていってしまう、そんな恐ろしさも感じます。
 そんな中での今回のテーマである「さあ、つながろう」という言葉、私たちはどう受け止め、考えていけばいいのでしょうか。
 本日お読みしていただきました聖書箇所は、マルコによる福音書第9章の33節から37節でありました。少し短い箇所ですが、これも教育週間礼拝でのテーマの成句となっている箇所であります。
 この箇所で描かれているのは、イエスが受難と死に向かってガリラヤを通って旅をしている状況であります。イエスはここまでで2回自らの死と復活を予告していました。その旅の途上で、弟子達は、誰が一番偉いか、という議論していた、と本日の聖書箇所には描かれていました。ここでの「議論する」という言葉は、「考える」という意味にもとれる言葉となっています。いつも考えていることが、ふと口に出てしまう、そこから議論に発展していく、そんな状況であったかもしれません。私たちは、教会の中で、あるいは様々な関係性のこの中で誰が一番偉いか、というように、あえて議論はしないように思います。その点、弟子達はここで正直な人間の姿を表していると感じます。私たちも、何人か人が集まった時そう言った議論はしないとしても、心の中でその問いをどこか持っている、そんな存在が人間の本当の姿なのかもしれません。
 しかし、イエスが「何を議論していたのか」と尋ねると、弟子達は黙っていた、そう聖書には記されておりました。そんなことを議論していたのは、内心良くないことであると言うことに、弟子達も気付いていた、ということだと想像できます。イエスはそれを見抜いていました。そこで、イエスは座って、語り始めます。ここでの「座る」という言葉を使っているのは、これが律法の教師が教える時の姿勢であったからであると考えられます。ここで、イエスが居住まいを正して、大切なことを弟子達に語ろうとしている姿勢が見られます。この箇所は、イエスの「弟子達の教育」を行っている場面ということになります。そこでイエスは「一番先になりたい者は、全ての人の後になり、全ての人に仕える人となりなさい」と語ります。主イエスは、弟子達よりももっと低いところに来てくださる、ということが聖書には記されています。ヨハネ福音書には「主は、弟子達の僕となって、その足を洗ってくださった」とまで記されています。イエスは、そのような意味で先頭に立たれました。わたしはあなたがたよりも低いところで、あなたがたに仕える。それを弟子達にも知ってもらいたい、という思いで語られました。
 そこで、一体誰に仕えるのか、ということで、イエスは「1人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて」言われました。
 「わたしの名のためにこのような子供の1人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」
 ここでの「子ども」「幼な子」というのは、天真爛漫な者といった意味ではありません。当時のギリシャ・ローマ世界では、子どもは価値のない者として考えられました。またユダヤ世界においても、子どもは神から与えられた祝福のしるしとされていましたが、実際には大人の思いのままに支配されていた、と言われています。つまり、ここでは「子ども」を無邪気さのゆえに受け入れるというのではなく、無力・無価値な者の1人として、また弱く助けのない者の1人として、ただイエスを信じるゆえに迎え入れる、ということであります。ここで、イエスの「小さい者への愛」がよく言い表されています。
 この箇所の並行箇所としては、マタイ福音書10章の40節に似た表現などがあります。しかし、今回の聖書箇所の内容を考えると、マタイ福音書25章31節以下が近いのではないかと思います。この箇所は、イエスが十字架の死が迫っていた時に、弟子達に教えられた言葉であります。
 「お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時見舞い、牢にいた時に尋ねてくれた」言われた人は驚き、私はあなたに何もしていない、いつあなたに会ったのか覚えもない、と言います。そこでイエスは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の1人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と語ります。このことこそ、イエスを受け入れること、そしてイエスが教えられた、神を愛し、隣人を愛することであると思います。
 私たちは、お互いを思いやって、祈って、助け合うことで、イエス様、神様を通して、「つながる」ことができます。私たちは、1人で生きているのではありません。世界中、住んでいる国は違っても、たとえどんなに離れていても、私たちはお互いに支え合って生きています。毎週私たちは、色んなことをお祈りしています。感謝のお祈りもあれば、今ここにいない人のことを思って、祈ることもあります。逆に、遠くの人が、わたしたちのことを思って、祈りを合わせていることもあります。その祈りを神様が、繋げてくださっています。私たちが互いに思いやる気持ちを持つこと、祈ること、そして、それを神様が繋げてくれる、このことがとても大切であると思うのです。今、そばにいったり、つながろうとするのが難しい状況があります。でも、そう言う時だからこそ、神様と繋がって、お互いが思い合って、祈りあうことで、「平和の絆」生み出していけるのだと思います。世界中の子供たちが、笑顔で過ごせるように、今日、この教育週間礼拝で、困っている人のことを思いながら、祈りによって、イエス様、神様を通して「繋がっていく」そんな歩みをしていきたい、そう願います。