「呼吸」 木村拓己牧師
使徒言行録 17章22節-34節
先日ラジオを聞いていたら、小さな動物と人間では時間の感じ方が違うのではないかという話題がありました。専門家は基本的な時間の流れは大きく人間と変わらないと思うと前置きした上で、次のようなことを話していました。「1秒間に私たちができることは多くないが、ネズミなど小動物は何度も方向転換して行動することができる。そう考えると、私たちの1秒よりも多くのことを小動物は考えていて、私たちよりも意思決定の回数が多いのかもしれない。」との指摘に、なるほどと思いました。
体が大きいと、挙動は大きくなり、細かく方向を見定める時には、軸足に大きな負荷がかかります。動くということは、自らを支える力がなければ成し得ないことなのです。家庭、教会、職場など、それが集団となるときには連携やコミュニケーションが必要になってきます。何か大きなことをする時には、それぞれが理解していなければ、力を合わせなければ、うまく自分たちを支えることができないのです。教会をキリストのからだと表すように、どの部分も欠けてはならない個としての部分と、それらが組み合わされてできた「キリストのからだ」なる教会も同じなのではないでしょうか。
パウロは外国人に福音を宣べ伝える者でした。ここではギリシャのアテネに立っています。アテネの町には、ギリシャ神話に代表されるようなあらゆる神々を祀る像、パウロから見れば「偶像」が建てられていました。パウロは憤慨したと前の段落の16節に書かれています。パウロは「すべての人に、命と息と、その他すべてのものを与えるくださる神だ」と堂々と語り出すのです。
「知られざる神々に」と刻まれた祭壇をパウロは見つけたと語ります。古代最高の知性が集まったアテネですが、祀り損なっている神がいるかもしれないと、アテネの人々は「知られざる神々」を祀っていたのです。
モーセの時代から、たとえみんなが安心できるものを作ろうとも、結局それが人間の手によるものである以上、信じ抜くことができず、不安と恐れが残ってしまうことを聖書は語ります。言い方を変えれば、自分の喜びや平安だけを求め、他者のことを考えない生き方、自分の思いが通らないとすぐに怒る忍耐のなさ、あるいは愛国心の名のもとに自己を正当化、絶対化していく思い、そういった偶像が現在の私たちをも取り囲んでいるのではないでしょうか。
パウロはギリシャの詩人の言葉を引用して語っています。ここで言わんとするのは、私たちは意識的に呼吸して生きているのではなく、神に生かされているのだということです。
聖霊は神の息吹であると理解されます。鼻の穴に神が息を吹き入れたことによって人は生きる者となったとされます。神の息吹を受けて、風をうけて、歩むのです。私たちは当たり前のようにその風を吸い込み、肺にいっぱい溜めて、吐き出します。御言葉を受けて、賛美と感謝の言葉をお返しする。それが礼拝であり、神との対話なのです。
偶像にすがる生き方は、極端に言えば、非日常を怖れて「災いが来ませんように」と願う人生であり、実際に災いが来てしまった時にどう生きればよいかまでは教えてくれないのです。
キリストの復活を愚かな話だと否認することは簡単です。しかし何も生まれないのです。多くの人がパウロから離れましたが、少数の人がパウロのもとに残りました。彼らもまた命とは何か。「生きるとは何か」を真摯に考え始めたのではないしょうか。
知性と恐怖は共存すること、人の知恵や経験だけでは人生は乗り切れない。このことを素直に認め、神の前に悔い改めよとパウロは招いているのではないでしょうか。
このことを知っているからこそ、私たちは福音の種まきをするのでしょう。すぐに芽は出なくとも、蒔かれた種はその人のうちに宿り、いつしかその人が本当に不安を感じたとき、祈るべき相手、祈るべき言葉がその人の心に芽吹くことを信じて種を蒔いているのです。
1秒間に私たちができることは多くありませんが、まとまった時間を礼拝を通して神にお返ししているこの時、どんなことがしたいと心に思い描くでしょうか。神に生かされ、心臓は鼓動し、呼吸するこの体を与えられた私たちは、どんな新しい一週間を送りたいと考えておられるでしょうか。一呼吸、心整えて、主に遣わされる一人ひとりとして、生活の場へと戻っていきましょう。
あああ