主日礼拝|今週のみことば

  主日礼拝説教(2026.3.22)

「神がなされたことによって」  ローマの信徒への手紙 5章1節-11節

木村拓己 牧師

 今次男が宇宙と月に関心を持ち、宇宙を目指す人に憧れを抱いています。漠然と自分の手が届かない場所に自分の知らない世界が広がっていることにワクワクする姿を横目に見ながら、知る喜びに生きる姿がうらやましく映るのでした。
 本日の聖書は「信仰によって義とされる」と述べられる箇所です。信仰による義、神の栄光に与る希望、苦難をも誇りとする。これらすべてがキリストにおいて示されて、神との間に平和を得るに至ったことが記されています。
 信仰によって義とされることは、神さまとのコミュニケーションと捉えることができるでしょうか。語りかけることがあれば耳を傾けることもあり、神さまと私たちの関係が築かれます。一方的に話したり、話を聞こうとしなくなるとコミュニケーションが成り立たず、良い関係ではなくなります。たとえ悪いことをしても、話していく関係性の中で赦されることは、私たちのコミュニケーションと同様にあり得るのではないでしょうか。
 そしてキリストの十字架こそ神と共に生きるために不可欠だったのだとパウロは語ります。教会には歴史があり、連なる一人ひとりの物語があります。教会にとってかけがえのない働きを担った人がいました。多くの人の心の支えであり、神さまとつながる助けであったことでしょう。しかしその人がすべてなのではなく、その人と共に神を仰ぎ、神さまのために働くことを喜びとした歩みが物語として教会の歴史に刻まれているのです。それは、時代を超えて今日に至るまで、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということが受け継がれてきたのではないでしょうか。
 いくつもの手紙で、パウロは何度も新しい時代に入っていくことを語っています。しかし古い時代が消滅するのではないのです。新しい時代とは、人が入れ替わることによって起こるものではなく、そこにいる人の心が入れ替わることによって起こることなのではないでしょうか。
 パウロは、ひいてはキリスト教は、共に生きるために十字架を前面に押し出します。十字架という弱さを前面に押し出すのです。主の十字架は共に生きること、他者と共にあり、弱さと共に生きることへと私たちを招きます。しかし十字架を前に、逮捕という非日常を前に逃げ出したくなる。それが私たちの現実の姿です。
 しかしこの十字架を前に、私たちが変わる大切なきっかけがあることを忘れてはならないのです。ローマ7章にはパウロ自身も迷いがないかと言えば、迷いがあり続けていることが語られています。パウロはそうした矛盾を隠していません。そこでパウロが示したのは「うめく」ということでした。
 「霊は弱い私たちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26)とあります。まさに矛盾を感じながら生きようとする時、そこでうめくのです。苦難や不安、恐れのあるところにそっと温かさをもって共にうめいてくれる存在がある。
 たとえ世の誰も気づかなかったとしても、神だけは私の心をご存知だという深い慰めに他なりません。希望と愛に生きる人生、同時に悪と迷いもある人生。それが私たちの歩みです。神が愛であること指し示すために十字架にかかられたキリストがいる。それは復活の喜びと私たちの現実を表す世の矛盾に満ちた出来事でした。それでも十字架を仰ぎ、天を仰いで知ろうとする者でありたいのです。神さまとの関係を築いていきたいのです。そしていつか神の愛の証しする者として立ちたいと願うのです。今しばらく十字架を見つめて歩みましょう。