主日礼拝|今週のみことば


主日礼拝説教(2024.10.20)


「隣り人になる」 木村幸牧師


ルカによる福音書 10章25-37節


 有名なよいサマリア人の喩えについて。強盗に襲われて見ぐるみ剥がされ、大怪我をして倒れていた人のことを、道を通る人通る人が無視をした。立場ある人も賢人も一般人も、皆が見て見ぬふりをした。たった一人、険悪な関係の筈の隣国の人だけが、この傷ついた人を助けてくれたのだった。
 これは当時のサマリア人の評価を変えようとする話ではない。ユダヤ人を見下げたり地位の高い人を馬鹿にする話でもない。これは窮地にある人の隣り人になることは本当に難しい、という話である。
隣り人とは何か。物理的に近い人か、同じ国籍の人か、同じ信教のある人なのか。どこまでを自らの「隣人」と考えるべきかと昔のユダヤ人たちもイエスに問いかけるが、範囲で定められるものではなく、隣り人には「なりにいく」ものだということをイエスはこの話を通じて伝えている。
 本当に苦しむ人の隣り人になれる人はごく少ない。隣り人になるとは、その人の横に立ち、同じものを見て、同じ気持ちを分け合える人になること。そのためにはいま自分がいる安全なところから出なければならない。相手と同じ危機の中に入らなければ、同じものは見えず、その気持ちにも触れられないからだ。
 誰よりも一番に先頭に立って、自分の安全も幸せも全て捨て、危険や悲しみや寂しさの中にいる人のところに自ら足を運んだのがイエス・キリストその人だった。教会に集まるのは、そんなイエスの姿に倣おうと懸命に足掻く一人一人の群れであるはずだ。

 私たちがいま暮らす場所で、目の前のことに全力で取り組むことは大事なことだ。自分だけに与えられた賜物が活かされることは御心に敵うことだろう。他の誰にも替えられないような働きを為す事は尊く、多くの人に必要とされる人間になることも素晴らしい。それは与えられた賜物と役割を完うする事である。
 その反面、どこかで、向いていない望んでもいない仕事に尽力している人々があることを忘れてはならない。その一つに、教育週間の課題として学ぶアハリー・アラブ病院で働く人々がある。各国から集まってそこで働く人々は、自らの活躍を願うことや、誇ることなどのためにそこに集っては決していない。
 こんな大変な事は自分には無理だ。できることなら今すぐやめて、安全なところに帰りたい。そう心の底から思いながら、涙を流しながら、ぐっとそこで足を踏ん張って留まっているのだ。どんなに頑張っても失われていく命を日々見つめ、心身がズタズタに傷ついても、目の前でつらい思いをしてる人たちを置いてはいけない。そうして足を踏ん張る人たちの背中を、今もイエスさまは一緒に支えておられるのだろう。苦しむ人たちの思いを体いっぱい受け止めながら、武器も持たずに闘っている誰かがいることを、私たちは覚え続けねばならない。

 輝いて見える賜物に喜んで人は集うものである。しかし輝きを失って暗いところへと押しやられる人にこそ、主は寄り添われる。主を信じる私たちがあるべき道はどこにあるだろうか。大人が子どもに、子どもが大人に、大切なことを伝え合える群れでありたい。