主日礼拝|今週のみことば

主日礼拝説教(2025.08.17)

「覆い隠されても」 木村拓己牧師

エレミヤ書 20章7節-13節

 東京都写真美術館で開催された被爆80年企画展「ヒロシマ1945」を訪ねた。そこでは米軍による接収や日本軍の焼却処分に抗って守り抜かれた写真の数々を観ることができた。たった一発の爆弾が都市全体を破壊し、地上では4000度にも達する爆風が人に建物に降り注いだ。爆心地から2km以内のほぼすべての建物が破壊され、残ったのは百貨店など大きな建物、広島流川教会もその一つであった。衛生環境も整わず、医療物資もない中で医療は続けられた。また突貫工事で翌日には国鉄が、三日後には路面電車が一部開通した記録には驚かされる。
 世界には2000回以上の核実験が行われてきた歴史がある。現在も少なくとも9カ国が1万発を超える核兵器を保有する現実、当然1945年のそれよりもはるかに殺傷能力を持つ兵器である。企画展の最後には、ある写真家の一人の言葉が記されていた。「このような記録は、私たちの写真が永遠に最後であるように」と。被爆者の平均年齢は85歳を超えた。真実が覆い隠されていく中で、今日私たちはどのように向き合い、平和をつくり出していくことができるのだろうか。
 本日はイスラエルの滅びを預言するほかなかった預言者エレミヤの言葉を読んでいる。本来預言者は神のことばに従って民を導く役割を持つ。イスラエルの人々が神から離れそうになった時には御言葉を語り、神へと立ち帰らせていた。
 エレミヤは、同胞の行く末、母国が侵略を受けて命と財産が奪われること。捕囚の民として連れていかれ、死に至らされることを語った。これらを語ったことによってエレミヤは拘留された。まるでバビロニア帝国の側に立って、イスラエルを売り渡した者であるかのように扱われていったのである。
 7節以下ではエレミヤの心に収められていた言葉が溢れている。「惑わされた」(7節)という言葉は非常に重い。エレミヤが語った裁きは決して他人事ではなかった。語るエレミヤ自身もまた、神の裁きに加えられる一人であったからである。
 神のために人々のために預言者として立つ一方で、一人の人間としてはそれを背負いきれない葛藤があり、エレミヤの絶望はより深く、暗く、憤りを内に秘めている。「神のために生きることがこんなにも苦しいことなのか」「こんなはずじゃなかった」との言葉が溢れている。それでも主の言葉が込み上げてくる。だからこそ神に対して苦しんでいる。
 7節から10節までは嘆きに満ちているが、一転して11節から13節は神に対する感謝が語られる。これはエレミヤの祈りであり、詩編のように語られていると指摘されます。そして嘆き自体は、祈り手の危機的状況を叙述する物語的機能を果たしているのであって、祈り手自身は、すでにその嘆きが神に聞き届けられている。したがって「嘆きが嘆きで終わらない」ところにこそ、今日の聖書の強調点があるということである。こうして「主は、正義をもって人のはらわたと心を究め 見抜かれる方である」との信仰告白へと至る。
 そしてエレミヤの証しを聞いた会衆一同が応答する。共にいてくださる主を賛美せよ!と。神が共におられるからこそ、目に映る困難、心を塞ぐ苦しみを乗り越えられたのだ!と。ここに心を合わせ、神を賛美する礼拝の原風景、その一端を見る気がする。平和聖日の信徒の証しによる礼拝(8月3日)も同じなのではないだろうか。
 エレミヤの嘆きは戦争体験との重なりを思わされる。正しいと思えることを話しても、覆い隠される。その時代の、力ある人々の都合によって覆い隠される。自分たちには都合の悪いことだとして大衆でさえも耳を傾けず、見て見ぬ振りをする形で覆い隠される。「それは真実ではない」との確信を持っていても覆い隠される。
 エレミヤは語ることをうまく整理することができない。エレミヤもまた当事者だからである。本当は記憶の彼方にしまい込みたい事柄であって、その引き出しを喜んで開けたいわけでもないのである。それでも、その経験を誰かにつないでいくために、覆い隠されたままにしないために、勇気を持って言葉にする。
 そうした言葉を預言者たちは語り続けてきたのではないか。教会もまた、今日まで御言葉のバトンを受け継いできたのではないか。聖書のことばだけではない。一人ひとりの人生から醸される言葉のバトン、信仰のバトンを受け継いできたのではないか。。
 「主の名を口にすまい もうその名によって語るまい、と思っても・・」というエレミヤの吐露に心動かされる。「嘆きが嘆きで終わらない」というエレミヤの祈りに心動かされる。「主は、正義をもって人のはらわたと心を究め 見抜かれる方である」というエレミヤの告白に心動かされる。
 自らの歩みを見つめ、世界を見つめ、すでに心に種蒔かれている主イエスの愛に支えられて、平和と和解、赦しを語る歩みを始めていきたい。何度も何度も、主のもとに帰ってきて、確かめて自分たちの生活へと戻っていきたい。