お知らせ

  • 礼拝及び集会に参加する時は、マスク着用でお願いいたします。日々体温を測り、体調がすぐれない場合は参加を控えてください。よろしくお願いいたします。教会受付にて手指用の消毒液がございます。
    (更新:2020年8月6日)
  • 主日礼拝説教(2020.11.29)「その日その時は誰も知らない」  石田 透
    イザヤ書2:1-5、マタイ福音書24:36-44

     今日からアドベントが始まりました。アドベント・クランツが飾られ、4本のろうそくの一本目に灯が灯されました。とても小さな灯ですが、また今年もこの光が灯され、ほっとした気持ちにさせられます。新型コロナウイルスの脅威にさらされ続けているこの2020年の年の瀬、その思いはひとしおです。私たちはこの暖かな光を見つめながら、この一年間の様々な出来事を今一度思い返しつつ、新たな力を得たいと願います。
    このろうそくの光、この炎は私たちの日常生活の中でつい私たちが忘れてしまう大切な何か、見ようとするのだけれども見過ごしてしまう何か、考え知ろうとするのだけれどもついつい怠ってしまう何か、あるいは宗教的なひそやかな大切なもの、まさに真理へと私たちを近づけてくれるように思います。
     私たちはより良く生きようといつも思っています。でもなかなかそのように生きることができません。またお互い憎み合おうなどとはこれっぽっちも思っていません。他の人と共に手を取り合って生きていくことを願っています。しかし人間はそのような願いを心の底に持ちながら、現実に負け、自分に負け、不信や不誠実の手下となってしまうのです。それは罪の子の姿にほかなりません。人間がどんな高度な科学の力を持っても、いかなる知恵を発揮し、いかに精神を尽くし、徳を高めようとも、人間の力だけでは罪から脱することはできないのです。それは私たち一人一人がよく知るところです。
    ローマの信徒への手紙6章23節に「罪の支払う報酬は死です」という有名な言葉があります。私たち生身の人間は命を与えられた者として、いつかこの命を手放さなければなりません。そのことがいかに悲しくとも苦しくとも、いつかは肉体の死を受け入れねばならないのです。しかし、パウロは同じ個所で、こうも言っているのです。
     「しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです。」
    神の愛を受け入れ、神の義を求める者には永遠の命が与えられると宣言するのです。私たちが神の愛に生かされるとき、神の愛に気づき、そのみ前にひれ伏すとき、そして私たちが喜びをもって神の愛を行うとき、私たちは永遠の将来を約束され、永遠の今を生きることができるのです。
     しかし、今私たちの現実はどうでしょうか。神の愛を受け取り損ねてはいないでしょうか。神の前に無残な罪の子の姿をさらしてはいないでしょうか。もしそうだとしたら、そこには死の先取りがあります。神を知らずして、あるいはそれを無視して自分だけを全てとして生きる者は死人と変わりはないのです。自分を無限の者、万能の者とし、自分の価値観、自己の力のみを頼みとして、それを軸にして人間関係を作ってはいないでしょうか。私たちは神の愛を関係性の根底に置くことによって、神との豊かな関係に入ることができます。同じように人間同士もまた、生きた豊かな関係性を築くためには、「愛」がなければならないのです。
     そんな私たちに、神さまは愛をもって私たち人間がその豊かな関係を取り戻すために、独り子イエスさまをプレゼントしてくださったのです。人間が神さまに背を向け、自己中心的な歩みを重ねてきたにもかかわらず、神さまの方から手を差し伸べてくださったのです。それが神の独り子主イエス・キリストの降誕の意味です。神と人との関係に破れ、人と人との関係に破れた私たち一人ひとりを、神さまを今、救おうとされているのです。ほつれた糸のような複雑な人間関係、あるいは寸断された私たちの関係をほぐし、また繕い、新たな生きた愛の関係を生み出してくださるのがイエスさまなのです。私たちは今灯されているこの一本の炎の中に、神さまが私たちに遣わしてくださったイエスさまの姿を見ることができるのです。
     今日私たちに「終末の平和」と題されたイザヤ書2:1-5の御言葉が与えられました。この言葉が記されたのは2000年前のイエスさまの時代の更に700年以上前のことです。ユダヤの国は神さまから選ばれ愛された特別の民ですが、その歴史は困難と苦渋とに満ちています。北からも南からも侵略され、戦争は絶えることがなく、人々は不安と混乱の中に生きていました。そうした中で人々は絶望的になり、世の中がいやになり、神さまの支配に疑いを持つ人々も現われたのです。「神などいない」という怒りと叫びです。人々が争い憎み合うその悲惨な現実の直中に預言者の言葉が響くのです。
     「終わりの日に、…主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」(イザヤ書2:1-5)
     人々はこの言葉を疑いの耳を持ちつつ聞いたことでしょう。あまりにも現実から遠い故に、人々はこの言葉の意味を素直にくみ取ることが出来なかったのかもしれません。そしてこの預言の700年後にイエスさまが生まれるのです。幼な子のかたちをとってこの世に来られた「平和の王」は、お誕生のお祝いに駆けつける人々もほとんどなく、寒い家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かせられています。その約30年後、預言者の伝える「平和の王」は小さなロバの子に乗って都エルサレムに入場されます。救い主イエスさまは策略が渦巻くこの世界に、全くの無防備で入って行かれるのです。力の論理が支配する人間世界へのイエスさまの登場は、神さまの支配の新しい世界の到来を告げるものでした。しかし、この世界は、そしてそこに生きる人々はその神さまのみ旨を受け入れませんでした。人々は一旦は歓呼の声を上げてイエスさまのエルサレム入場を歓迎しますが、一週間もたたないうちに救い主イエスさまを十字架へと追いやってしまうのです。何という人間の身勝手さでしょうか。でも神さまは人間に対する愛の業を途中で放棄されるような方ではないのです。神さまが定められたその時に神さまは救いの業を貫徹されるのです。
     先ほどご一緒に読んだマタイによる福音書24章36節以下にこうあります。
    「その日、その時はだれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ父だけがご存じである。人の子が来るのはノアの時と同じだからである。…だから目を覚ましていなさい。…だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
     「目を覚ましている」「用意している」このことがアドベントの精神です。決しておおげさではなく私たちは審きの日の一歩手前を生きているのです。ならばその時を生きている私たちキリストにつながる者は、いったい今、何をなすべきなのでしょうか。いたずらに終末意識を煽る必要はありませんが、私たちはいつかどこかで、自分自身の生き方に対して決着をつけなければならない時がやってくるのです。主が再び来たりたもうその時、問われるのは漠然としたこの社会ということではありません。問われるのはそこに生きる私たち一人一人なのです。私たちは神さまの大きな愛に応えて生きているでしょうか。豊かな人間関係を作ろうと真剣に生きているでしょうか。神さまはこの世界全体を愛しておられます。審く為ではなく、救うために御子イエスさまを世に遣わされました。私たちは教会だけが救われるために生きるのではありません。私たちがキリストの僕としてふさわしい生活をすると同時に、まだ神さまの愛を知らない方々のもとへ、イエスさまの恵みを伝える器となることを期待されているのです。私たちは待降節アドベントを迎えた今、そのことを自らに真剣に問うていきたいと思うのです。

    祈り:神さま、イエス・キリストを待ち望むということは、イエスさまによって神さまの正義がこの世界に成就することを信じるということです。アドベント第一主日礼拝をもって教会の一年が始まりました。始まりのしるしであるローソクの火を見つめながら、私たちはただ一つの祈りを捧げます。私たちは「主よ、御国を来たらせ給え」と祈ります。世界は本当にイエスさまを必要としています。今こそ、この世界全体のために、すべての人々のために、「主よ、御国を来たらせ給え」と祈ります。「主よ、来てください」。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

  • 主日礼拝(毎週日曜日 午前10時30分)
    次週礼拝予告
    2020年12月6日(日)降誕前第3主日(待降節第2主日)礼拝
    説教:『主は罪を悔いる者のもとに来る』 石田 透 牧師
    聖書:イザヤ書 59章12~20節
        (更新:2020年11月29日)

  • 聖研祈祷会
    日時:12月3日(木) 19:00~20:00
    場所:教会ホール
    聖書:サムエル記下19章
  • ランチタイム・メディテーション -No.720-
    2020年12月9日(水)12:00~13:00
    ‐オルガンと瞑想のひととき‐ 
    Vn.小穴晶子 Org.新妻由加
    (オルガンの演奏は12:30より約20分間)
  • 礼拝堂見学について
     現在、礼拝堂見学は、新型コロナウイルス感染拡大防止対策のため
     中止しております。