お知らせ

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    (更新:2020年12月24日)
  • 主日礼拝説教(2021.2.28)「人を縛る力と解放する力」  石田 透
    マタイによる福音書12:22-32 

     「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12:28)。「ベルゼブル」論争と呼ばれる出来事は、きわめて単純明快な事件がきかけとなって始まりました。すなわち、「目が見えず口の利けない人」が、イエスさまの愛の力によって癒されたことがその論争の発端となったのです。イエスさまは苦しみの中に置かれていた人々の苦しみを癒し、罪の赦しの宣言を行い、苦難の中にある人々の解放のために力を尽くされました。今日の箇所ではイエスさまが悪霊を追い出して癒しを行うことが、その時代の人々にどのように理解されていたのかを福音書は非常に興味深い仕方で私たちに伝えています。
     イエスさまと言う方は論争相手の矛盾をつく知恵と力を持っておられました。色々な場面でその力を発揮されました。今日の場面で申し上げますと、まず第一に、もしイエスさまの悪霊祓いが悪霊のかしらベルゼブルによるものだとしたら、サタンの王国内の内紛のようなことになるわけですから、イエスさまはそんなばからしいことを賢いサタンがする訳はないと言うのです。そして第二に、イエスさまの業が仮にベルゼブルの力を借りた業だと言うのならば、あなたたちの仲間であるユダヤ人の悪霊追放は、どう説明されるのかと逆に問い詰めておられるのです。当時、悪霊追放・悪魔祓いと言うものはユダヤ人社会で日常的に行われていました。いずれにしても、イエスさまのこうした的確な反論によって、敵対者たちの非難がいかにでたらめであったのかが暴露されていきます。しかしイエスさまの目的は論争相手をへこませることではないのです。
     イエスさまは冷静に反論した後に、この悪霊を追い出した業が一体何を意味しているのかを語ります。それが28節の記述です。
     「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。
    この悪霊追放・悪魔祓いの大いなる御業を通して、神の国の到来が証しされているということをイエスさまは主張するのです。この箇所でイエスさまは神の国の到来を宣言しました。信仰をもってこれらの事柄を受け止められる人には、イエスさまの御業の一つひとつは神の国の現実を証しするものとなるのです。
     イエスさまはこのような神の力が今や悪魔の支配を打ち破り、神の国が来たと言うことを証言するのです。イスラエルの苦難の歴史の中への神の最終的介入、神の勝利の時代の開始の宣言です。これがイエスさまの行う悪霊追放・悪魔祓いの業の意味でした。イエスさまは人間を苦しめているものに敢然と立ち向かいます。そして、勝利を収めて究極の救いを与えるのです。聖書においては悪しき力の撲滅、つまり悲しみや嘆きの終焉はイエスさまによる救いの業の完成のしるしです。イエスさまの御業の中に、このような時のしるしを見い出すことが出来るのです。私たちの人生も私たちの内なる悪との戦いの連続ですが、すでに神さまはイエスさまにおいて悪の支配を打ち破っているということを学びたいと思います。私たちが抱えている病も苦しみも不幸もやがてこの勝利に飲み込まれていくということを慰めとすることができたならば、私たちの人生はそれだけで明るくなっていくのです。私たちは人生の途上でそれぞれの仕方で多くの苦難を経験します。しかし私たち一人一人の人生は決して滅びゆくものではありません。本当に豊かなものを目指して、私たちの人生は続いてゆくのです。大切なことはその私たちの人生は一体何によって支えられ、何によって導かれているのかということです。
     私たち人間の生命というものは、肉体的物質だけで成り立っているのではありません。それがどのような力と結びついているのか、何に支えられているかによって、その生命は生きもし、又死にもするのです。今日の箇所に即して申し上げるならば、悪霊に結びつくのか、それとも神の力によってかと言うことです。両者は共に「物」を超える力ですが、しかしその働きの方向は全く異なっているのです。
    イエスさまはものが言えない人の口を開きました。その時、そこには二つの力の戦いが現われました。一つは人を縛る力です。この力は人を締め付け、内に閉じ込め、圧迫し、拘束します。心を威圧し、その人の人格を無視して、その人の主体性を奪い、命令します。これはまさに暴力です。もう一つはイエスさまの力です。呪縛を解き、その人の心を解放し、自分を表現することを得させます。その人の人生を豊かに展開させる力です。「ものを言えない」という「悪に支配された痛み」を負っている人に対して、イエスさまは「これは神の御旨であるから治す必要はない」などとは言わず、敢然と悪霊追放の業を人々の目の前で行いました。このイエスさまの力と癒された人の姿を見た群衆は、驚きと共に、イエスさまの力の偉大さに心を奪われるのです。このただ中でベルゼブル論争が起きて行くのです。
     敵対者たちは「彼は悪霊のかしらベルゼブルによって悪霊を追い出しているのだ」と主張しました。このベルゼブルというのは、旧約聖書列王記下に出て来る異国の神バアル・ゼブブの変化形です。BC850~849、アバズヤ王は屋上の欄干から転落して怪我をしたとき、エクロン(プリシラの町)に祭られていたバアル・ゼブブに伺いを立てて、その病気が治るかどうか聞こうとしました。その時、預言者エリヤはこのようなことをしたアハズヤの死を主の名によって宣告し、その通りになりました。(列王記下1章)
     ベルゼブルによって何かをすると言うことは、神に対する反逆を意味しています。また、そのようなことをしていると他人を非難したり、批判したりすることは何ものにも変えがたい侮辱でした。人格の否定、抹殺にも等しいものでした。イエスさまに対する敵対者たち、それはファリサイ派や律法学者たちであったと思われますが、彼らの敵意と非情さ、目的のためには手段を選ばない暴力性がそこに表現されています。
     それに対して、イエスさまは敢然と論争を挑むのです。その論理の内容は「分裂」に対する分析とその結果もたらされる明らかな結論の提示です。イエスさまは語ります。「悪霊のかしらベルゼブルがその部下である悪霊たちを追放すると言うのであれば、その集団は崩壊するであろうから、そのような馬鹿げたことはあり得ない。今、ものを言わせない悪霊が一人の人から追放されたのは、ベルゼブルによるのではなく、ベルゼブルそのものを追放することの出来る力によって、まさにそれが行われたのである」。
     まさに、真の神の力がそこに現された。それを群衆の前で行ったイエスは神の力を受けた者である。この方こそ神の国の到来を告げる者なのだと聖書は語るのです。
     最後に改めて申しあげたいことがあります。それは、イエスさまの悪霊追放は何かの目的の為ということではなく、そこに一人の苦悩の中に在る人がいるということから生まれた出来事であったということです。批判者にとって癒された人の喜びなど関係ありません。しかしイエスさまは違うのです。ものの言えない人がそこに生きている。あらゆる手だてを尽くしても、その人の病気は治らない。周りの人々はこの人のことを「悪霊に取りつかれた存在」だと結論を下し、罪人であると断定し、さらにこの人を追いつめて行く。周囲の人々の予断と偏見がその悩める人を罪人と決定づけて行く。身体的、精神的障害を負った人々に対する宗教的差別の構造はこのような形をとり、社会に定着し、普遍化していく。そしてそのことがその時代とその社会の常識となっていく。さらにそのことによって、その人と神との関係は引き離されたものとなり、その人の人生は失われていく。
     イエスさまという方はそのことに深く心を痛めるのです。神さまの愛を受けるはずの小さな存在が神さまの愛からどんどんと遠ざけられていく。そのことがイエスさまを苦しめます。イエスさまはもう我慢ならないのです。そしてイエスさまはそのような非人間化された人々に愛をもって近づいていかれるのです。彼らの苦悩を共に担い、彼らに慰めを与え、悪霊を追放し、罪の赦しを宣言するのです。そのようにしてファリサイ派や律法学者たち、あるいは彼らに煽動された群衆に対して「そうではない」「否」の表明をし、敢然と「癒し」の業を行われるのです。その癒しの業は悪霊追放による神と人との関係の回復です。
     翻って我が身を省みるならば、私たちも様々な悪霊の呪縛にがんじがらめにされていることを思います。イエスさまによって「悪霊からの解放」を経験した者として、本当に自由に生きていきたいと思います。

                                         
  • 主日礼拝(毎週日曜日 午前10時30分)
    ~次週礼拝予告~
    2021年3月7日(日) 復活前節第4主日礼拝
    聖書:マタイによる福音書 16章13~28節
    説教題:「サタンと呼ばれた男の信仰の道」 石田 透 牧師
    交読:詩編 86編5~10節
    (更新:2021年2月28日)
  • 子どもの礼拝のお知らせ
    子どもの礼拝は引き続き2月末までお休みします。
    (更新:2021年1月31日)
  • 保護者礼拝のお知らせ
    保護者礼拝は2月21日はお休みします。
    (更新:2021年1月31日)
  • 聖研祈祷会
    日時: 3月4日(木)19:00~20;00
    場所: 教会1F ホール
    聖書箇所:サムエル記23章
    (更新:2021年2月275日)
     
  • ランチタイム・メディテーション-No.732 
    2021年3月3日(水)12:00~13:00
    ‐オルガンと瞑想のひととき‐ org 堀井 美和子
    (オルガンの演奏は12:30より約20分間)
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