お知らせ

  • 主礼拝及び集会に参加する時は、マスク着用でお願いいたします。日々体温を測り、体調がすぐれない場合は参加を控えてください。また礼拝に参加される際、教会受付にて検温と手指消毒、隣の方とは一席以上離れての着席にご協力くださいますよう、よろしくお願いいたします。
    (更新:2020年12月24日)
  • 主日礼拝説教(2021.1.17)「主の招く声が聞こえてくる」  石田 透
    マタイによる福音書4:18-25

     皆さんは、「イエスさまの声」を聞いたことがあるでしょうか。「わたしのもとに来なさい、わたしについて来なさい」というイエスさまの声を聞いたことがあるでしょうか。
    讃美歌をお持ちの方は、讃美歌21の516番を開けてみてください。
    主の招く声が聞こえてくる。日ごとに養い、新しく生かす、私たちを招く声が。
    呼ばれるこの身は力もなく、この世の重荷とわずらいの中で、くびきを負い、
    あえいでいる。
    み声に応えた聖徒たちの歩みに従い、私たちもまた主の名を身に帯びて進もう。
    新しい課題も日々のわざも、十字架を負われた主が与えられた務めとして、
    励んでゆこう。
    主の招く声が聞こえてくる。こんなに小さな私たちさえもみ業のため用いられる。
     私たちはこの世界の片隅でそれぞれ固有の重荷を担いながら、時にはあえぐように毎日必死に生きています。そのような貧しく力もない小さな存在をイエスさまは愛し、招き、力づけ、イエスさまの善き働きのかけがえのないパートナーとして用いてくださるのです。耳を澄ますとイエスさまの声が聞こえてきます。私たちを日ごとに養い、私たちを新しく生かす、私たちを招くイエスさまの声が聞こえてきます。
     2000年前、ガリラヤ湖で漁師をしていたペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレは、湖のほとりでイエスさまに出会いました。そしてイエスさまの声を聞いたのです。
     バプテスマのヨハネから洗礼を受けたイエスさまは伝道活動を開始されました。イエスさまが最初に為さったことは弟子を選ぶということでした。
     イエスさまはガリラヤ湖のほとりを歩いておられました。そこには日々の営みを黙々とする庶民の日常生活がありました。そして最初に目に入ってきたのが兄弟で漁師をしていたペトロと呼ばれるシモンとその弟アンデレの姿です。彼らはひたすら湖で網を打っていました。そしてイエスさまはそんな彼らに声をかけたのです。
     「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。イエスさまはそうおっしゃられました。そして、二人は「すぐに網を捨ててイエスさまに従っていきました。」
     まことに簡潔なドラマです。イエスさまは彼らに出会い、声をかけ、弟子たちはそれを聞き、従っていく。ただそれだけです。イエスさまは宣教のパートナーを求めました。そしてそのパートナーは特別な人々ではありませんでした。ごく普通の人々です。たまたま出会ったシモン・ペトロとアンデレがイエスさまから声をかけられたように、私たち一人一人も例外なくイエスさまから招かれているのです。弟子として従ってくるようにと求められているのです。事柄は極めてシンプル。私たちもまた彼らと同じようにすぐに従って行きたいと心から思います。でもすぐにそのように出来ない自分もまた居るのです。事柄はシンプルだけれども、それはまたとても重いことでもあるのです。
    イエスさまが弟子たちを選ばれたとき、まず最初に弟子たちがしなければならなかったことは何かを「捨てる」ということでした。シモン・ペトロとアンデレは漁師にとって極めて大切な「網」を捨て、「船」も捨ててイエスさまに従っていきました。彼らは自分の生活の基盤一切を、生活の糧を投げ捨てて、イエスさまに従って行ったのです。
     私たちは年を重ねるごとに、その手に抱える「もの」は多くなっていきます。その「持ち物」は物質的な物や財産のこともありますし、家族や友人との交わりや様々な人間関係があります。また長年積み上げてきた実績や地位や役割などもあります。長く生きれば生きるほど、人間は色々なものを抱えて生きることになるのです。それはある意味では自然なことです。
     京都で新しい生活を始めた20代前半の自分の姿を思い浮かべてみますと、そのとき身の回りにあったのは段ボール箱二つ三つと布団袋一つだけでした。ほとんど何も持たずに社会人として歩み始めました。それが半世紀近くたち、今や抱えているものの何と多いことでしょうか。家族や友人など、それらは私にとって本当にかけがえのないものばかりです。しかし、同時に抱えるものが多くなればなるほど、そうした「持ち物」や人との繋がりや関係性に執着するということも起きてくるのです。私たちは多くの「もの」に囲まれ、本当に大切なものとそれほどではないもの、あるいはむしろ捨ててしまった方が良いものの見分けがつかないまま日常を生きているのかもしれません。そんな私たちにイエスさまは「わたしについて来なさい」と一言呼びかけるのです。あのガリラヤ湖の漁師であったシモン・ペトロとアンデレがしたように、自分が抱え込んでいる多くの物によって心煩わせている私たちに、ただ「捨てて」従う、「捨てて」生きることの幸いへと導こうとされるのです。
     ところで「断捨離」という言葉を最近しばしば聞きます。「絶つ」「捨てる」「離れる」と書きます。断:入ってくる不要な物を断つ。捨:家にずっとある不要な物を捨てる。離:物への執着から離れる。ということです。「断捨離」とは、不要な物を「断ち」あるいは「捨て」、物への執着から「離れる」ことにより、「もったいない」という固定観念に凝り固まってしまった心を開放し、身軽で快適な生活と人生を手に入れようとするヨガの思想から来る新しいライフスタイルです。
     考えてみればイエスさまは遥か二千年前から「捨てる」ことの幸いを私たちに教えてくれていたように思うのです。その究極の答えが十字架のイエスさまの姿です。イエスさまは私たち一人一人の救いのために、ご自分の全てを投げ出してくださいました。イエスさまはすべて手放してしまいました。ご自分の命さえ私たちのために手放したのです。私のような者が軽々しく言ってはいけないかもしれませんが、イエスさまは持っているすべてを失っても自分の身を不幸だとは決して思わなかったと私は考えています。そのようなご自分の決断を神さまは喜んでくださるとイエスさまは確信していました。イエスさまにとって神さまがよしとしてくださる以上の幸いなどないのです。
    イエスさまはとても優しい方ですから、私たちがイエスさまと同じようにすることができなくても赦して下さいます。「私に従う道はこの世的には困難な道かもしれないけれど、本当の幸いへとあなたを導く真実の道なのだよ」と優しいまなざしを向けながら、私たち一人一人の人生をずっと見守っていてくださるのです。そして行くべき道を見失ってさまよっている私たちに「私のもとに来なさい」「私についてきなさい」「この道を行きなさい」と招きの言葉をかけてくださるのです。
     詩40:1に「主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった」とあります。主はそういう方です。私たち小さな者たちの叫びをいつも聞いていてくださるのです。次は私たちがイエスさまの声を聞く番です。
    イエスさまは昔も今も、人々に語りかけます。今も静かに語りかけておられます。世の喧騒の中では、耳を澄ませていないとその声は届いて来ません。あまりにも人の声を聞かないこの世界で、イエスさまの声をしっかりと聞いていきたいと思います。しかも、小さく貧しくされた人々の叫びの中に、イエスさまの声を聞き届けたいと思います。イエスさまの声を聞くことから、すべてが始まるのです。
                                          

  • 主日礼拝(毎週日曜日 午前10時30分)
    次週礼拝予告
    2021年1月24日(日)-降誕節第5主日礼拝-
    聖書:マタイによる福音書4章12~17節
    説教題:「神の国の到来を告げるイエス」 石田 透 牧師
    詩編:44編2-9節
    (更新:2021年1月17日)
  • 子どもの礼拝のお知らせ
    子どもの礼拝は1月17日、24日、31日はお休みします。
    (更新:2021年1月10日)
  • 保護者礼拝のお知らせ
    保護者礼拝は1月17日、31日はお休みします。
    (更新:2021年1月10日)
  • 聖研祈祷会
    聖研祈祷会は1月21日、28日、2月4日、11日はお休みします。
    (更新:2021年1月17日)
     
  • ランチタイム・メディテーション-No.726 
    2021年1月20日(水)12:00~13:00
    ‐オルガンと瞑想のひととき‐ org 森 亮子
    (オルガンの演奏は12:30より約20分間)
  • 礼拝堂見学について
     現在、礼拝堂見学は、新型コロナウイルス感染拡大防止対策のため
     中止しております。