お知らせ

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    (更新:2020年12月24日)
  • 緊急事態宣言を受けて、5月16日・30日の保護者礼拝は中止といたします。(2021.05.13)
  • 新型コロナウイルス感染拡大防止のため、2021年度の原宿教会・原宿幼稚園合同バザーは中止といたします。(2021.5.11)
  • 主日礼拝説教(2021.5.9)「主イエスの祈り」井殿 謙
    マタイによる福音書6章1~15節


    マタイ福音書6章1節以下は、18節まで続くまとまりの一部分となっています。このまとまりの主題となっているのは、イエスキリストを信じて従っていく弟子達の「義」に関してです。マタイ6章は1節から18節に渡って、3つの善行について語られています。
    その善行は、シナゴグで規定される、人間が神への愛を具体的に表現することのできる敬虔的行為です。その内の3項目が、2〜4節の「施し」、5〜6節の「祈り」、16〜18節の「断食」です。当時のユダヤ人たちは、この3つの行為によって「義」を神と人とに示していきました。
    本日の聖書箇所は、この「施し」と「祈り」の部分になります。
    そして、本日の説教題ともさせていただいております、「主の祈り」の紹介もこの「祈り」の部分に入っています。

    本日の聖書箇所より少し遡って5章21節以下を見ると、「昔の人はこう教えられている。しかし私は言っておく」というように、古い律法の教えとイエスの教えを対立させた構造で描かれる反対命題の形が取られています。
    これと類似した形で、6章1節以下も展開されていきます。さらにここでは、ユダヤ教の宗教的実践を否定せずに、むしろ純粋化・徹底化する形で推し進められています。論法としては、信仰の実践における「動機」を問題にしていて、そこから信仰の「内実」を問い返してくというものとなっています。
    この箇所の目的としては、イエスが弟子達が施し、祈り、断食をするときに、どのような態度を取ることが「真実に神を喜ばす生き方」であるかということ、また、この3つの敬虔的行為の本来のあり方を示すことで、新しい敬虔の基準を示すということです。
    2節以下の先程の3項目ですが、文体もほぼ同じ繰り返しがなされています。「〜する時には」で始まり、否定の命令が続くというものです。具体的には、偽善者の態度を取り上げて、それに対して、信仰の実践というものは、人の称賛を当てにするのではなく、隠れてなすべきである、と勧めています。
    本日は6章で語られる3つの善行の中でも、「祈り」について考えていきたいと思います。5節以下は「祈るときには」という小見出しがつけられております。
    まず「祈る時、あなた方は偽善者のようであってはならない」と語られています。ここでの「偽善者」とは、マタイ福音書の文脈ではファリサイ派のことを指していますが、自分の「義」を人に見られることを目的として行う人々のことであります。
    またここでの「偽善者」という言葉は「俳優」という語に由来しています。俳優というのは、何となくイメージがつきやすいと思いますが、人に見られるために「本来の自分でないもの」を演出することによって、仮の姿の自分に対する報酬を求めるものであります。
    つまり、善行など何かの行為をすることによって、それが量られ、何らかの評価や報いがあると期待する、そのために行動するといったことになります。
    祈りや善行といった行為そのものは、外面的に側から見ても、そして人間的に、その「人の力」によっては、真実な行為と区別出来ないものでもあります。しかし、イエスは「隠れたことを見ておられるあなたの父」神によっては、その行為を明らかに区別されるということを告げています。
    人に見せるための行為。例えば、何か良いことをしようとする際、人間は自分がこんな良いことをするいい人なんだと思われたい、その後の周りの評価を気にしたりします。はたまた、自己満足や自惚れを生むような、自分に見せるための行為となってしまいます。
    そのため、善行の行為を勧めながらも、それを徹底的に、3節での「右手のすることを左手に知らないほど」に隠すことが求められています。
    あらゆる「人目」を排除していく中で、それを自由なところで行う時、信仰の実践というものは、意図的なものではなく、ごく自然な行為となり、評価もくだされない。このように人に褒められたり神からの返報も計算に入れない自然な行為をする時に、初めて人は神との正しい交わりに入るのだ、と語られています。

    そして、「祈り」についても同様に語られています。
    会堂や大通りの角で、人に見てもらおうと祈りたがる人々、祈りをする上で、言葉数が多ければ、それが良いと思う人々などについて挙げられています。
    私の実家は以前もお話させていただきましたが、神奈川県の翠ヶ丘教会というところで、帰ると懐かしい礼拝堂を通って家に入っていくのですが、そのようにしているといつも、自分の小さい頃のことを思い出します。
    私は小さい頃を通り越してお腹の中にいる時から教会に通っていたのですが、幼稚園、小学生、中学生と成長していくと教会学校にも行き始めました。そこで、礼拝の献金の時間やその他の機会でも、子どもがお祈りをする時がありました。しかし、私はいつからかあまり人前でお祈りをしたくなくなっていったことを思い出しました。まず、恥ずかしいという気持ちもありましたし、そしてどんな風にどんな言葉で祈りをして良いかわからなかったからです。また、そのことは大学に入り神学生をしていた時もそうでした。献金や聖書を読んだ後の祈りの時など、どんなお祈りをするか、色々本を読んだり、調べて、何とかそれらしく、文章量もあって、格好の良いと思えるようなお祈りをしようと努力していました。さっとその場で祈りをするという機会はすごく緊張しましたし、上手くいかないことも多くありました。そんな時周りの人や牧師の祈りを聞くと、すごいなあと思うわけであります。自分も、上手なそれらしく見えるお祈りをしたかったんですね。
    そんなある時、神学生の奉仕でクリスマスの司会をしお祈りをするときがありました。それも入念に準備をして、お祈りしてみると、礼拝のあと、教会員さんに成長したね、よかったよと褒めてもらうことができました。
    この祈りに対して向き合うこと、その場や時に合わせた言葉遣いで、その状況にあったことを祈ることはとても重要なことですし、その努力は常にし続ける必要があると思います。また、その教会員さんは、その内容的な部分に触れて褒めてくだっさった、とてもありがたい嬉しいことであるのですが、それに満足して、ただ褒められる祈りをすることが良いと単純に思うことは、また違うことなのだと、本日の聖書箇所を読んで感じました。

    先程偽善者という言葉は、俳優が由来であると言いましたが、このように祈る時、演技を聞く観客、そして称賛を受ける自分自身のことを関心の中心に置く時、自分の評価の基準を周囲の人間に置く限りは、真実な自己を問題にする必要がなくなり、自己を見失い、そして、神をも見失ってしまいます。
    単に観客、教会員さんや、聞く人に褒められる自分自身というものが関心にあるような、祈りをすることが中心となってしまっては、それは偽善的なものとなってしまう、ということになります。
    イエスがこの俳優のような偽善者のようになることを否定したのは、神との対話の間に立ちはだかる、まやかしを克服しなければ、真実な祈りが出来ないからであります。
    つまり、祈りの言葉の長さ、綺麗な格好の良い言葉遣い、褒められるようなものではなく、神と相対して対話するその態度が重要なことなのです。

    先日、実家で母親と話していた際、ふとこの「祈り」ということと関連した話をしたことを思い出しました。
    その時母は「あなたは小さい頃素直でいい祈りをしていた」と言っていました。それは、努力して良く見えるようにしていた祈りではなく、本当に純粋で無垢な子どもの一生懸命に伝える姿からそう思ったのだと思います。
    そう考えていくと、小さい頃、どうやって祈るかわからない状態、理想の祈りとは最も遠いような状態が、祈りたいことを、神と、他に何もないまっさらな自分との対話の中で、祈るということ、それがまさに真実の祈りに近いものであったのだと思わされました。
    この母の日礼拝でのメッセージを考えていく中で、小さい頃から自分を見てきた関係性の中で、初心を忘れているような自分に、子どもの持つ純粋さ・無垢さを思い出させてくれる存在、そんな気付きを与えられたということは、母の存在に感謝すると同時に、何か不思議な導きがあったのだと感じました。

    改めて聖書箇所に戻りますが、そのように偽善者のような祈りをしないよう語ったイエスは、9節以下で私たちにどのように祈るかを教えてくださっています。
    イエスは、これまでの人から褒められるような、立派に見える、格好の良い祈り、言葉数が多ければ聞きいられると思い込まれていたような、言葉を飾ってかみを味方につけるような祈りとは対照的に、美辞麗句を重ねた形式的な言葉を排除して、素直な心で祈ることを教えられました。

    また、この主の祈りを紹介する際、イエスはその理由として、「あなた方の父は願う前から、あなた方に必要なものをご存知である」からと語っています。これは私たちが祈ることを可能にする根本的な約束であります。
    神は、私たちが自分に何が本当に必要であるのか気づいてもいない内から「必要なものはご存知」であり、さらに愛と恵みを持ってこれを備えてくださっています。
    この愛と恵みは、イエスキリストによって示されました。私たちがイエスキリストの御名によって祈るのはそのためで、この御名によって祈ることで真実な祈りをすることができるのであります。
    そして、イエスはそのご自身の生と死をもって、私たちの祈りを保証してくださっています。
    この愛と恵み、そして主イエスの祈りを私たちは与えられ、これからも祈りを重ねていきます。
    そして神を信頼して歩む日々へと招かれています。この恵みに感謝して、これからも御言葉を携えて歩んでいきたいと思うのです。


  • 主日礼拝(毎週日曜日 午前10時30分)
    ~次週礼拝予告~
    2021年5月16日(日) 復活節第7主日礼拝
    聖書:ルカによる福音書 24章44~53節
    説教題:「宣教の使命を託されて」 石田 透 牧師
    交読:詩編 93編1~5節
    (更新:2021年5月9日)
  • 聖研祈祷会
    日時: 5月13日(木)19:00~20:00
    場所: 教会2F 会議室
    聖書:ヤコブの手紙2章14~26節
     
  • ランチタイム・メディテーション-No.743 
    2021年5月19日(水)12:00~13:00
    ‐オルガンと瞑想のひととき‐ Org. 米山浩子
    (オルガンの演奏は12:30より約20分間)
  • 礼拝堂見学について
     現在、礼拝堂見学は、新型コロナウイルス感染拡大防止対策のため
     中止しております。