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    (更新:2020年12月24日)
  • 復活節第2主日(2021.04.11)「復活の出来事を前にして」井殿 謙 伝道師
    マタイによる福音書28章11~15節


    私たちは先週、復活の日・イースターを迎えました。十字架で死なれた主イエスの復活の出来事は、私たち、全世界において喜びと希望が満ち溢れる時となりました。そして、主イエスの復活の出来事によって、新しい命、新しい世界が始まりました。
    しかしながら、本日の聖書箇所においては、喜びにあふれる人々の姿とは対照的な、もう一つの物語が記されています。

    マタイによる福音書28章11-15節では、「番兵、報告する」という小見出しがつけられております。ここでは、27章の62-66節において語られた、墓を見張っていた番兵たちの結末が描かれていきます。ユダヤ教の指導者層、祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを単に処刑した、ということのみでは安心できず、総督ピラトの元へ集まり、イエスが3日後に復活すると言っていた、それを防ぐための対応を求めます。そこからピラトの助力を得て、墓に封印をし、その上で見張りの番兵まで立てていきました。この箇所が本日の聖書箇所の伏線となっていて、組み合わさることで一つの物語となっていきます。
    マタイによる福音書28章では、イエスの墓が空っぽになった、という場面が描かれていきます。空虚な墓、その事実をマグダラのマリア達が、主の天使から伝えられていく場面が、28章1節以降に記されています。そして、ここでの場面において、彼女らの他に、その出来事を見ていた人がいました。それが、墓の見張りをしていた番兵達でありました。復活の出来事を目の当たりにした彼らは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった、と4節において記されています。そんな番兵達のその後の姿が記されているのが、本日の聖書箇所である、28章11節以降となっています。
    イエスの墓が空になり、「あの方は復活なさった」と天使が告げるのを聞いた番兵達は、婦人達が行き着かないうちに、都へ帰り、その一部始終を、祭司長や長老達に報告しにいきます。しかし、彼らは番兵達の報告を聞き入れもしませんでした。そればかりか、彼ら祭司長たちは、集まって相談をした上で、多額の金を番兵達に掴ませ、「弟子達が夜中にイエスの死体を盗んでいった」という嘘の話を広めるように、番兵達に命令していきます。このような、主の復活を無きものにしようとする、そんな姿が聖書では描かれていきます。
    この死んだ人が入っている墓が空っぽになっているということ、死んだ者が生き返るということ、この復活という出来事は、番兵や祭司長を含め、当時の人々にとって、信じがたいことであった、と思います。そしてこのことは、弟子達にとっても同様でありました。

    イエスを失った弟子達は、十字架刑という重い受難と死に直面し魂を閉ざされていく、という経験を余儀なくされていきました。それは、明日無き絶望的な状況への転落であったと言うことができます。また、聖書には、ユダヤ人を恐れエルサレムに隠れるように滞在している弟子達、なお恐れを抱きながら、自分たちの家の戸に鍵をかけてまでいた、という描写が描かれています。イエスの逮捕と同時に逃げ隠れたものの、自分たちのところにも、追求の手が及びそうな緊迫した状況、身も心もすり減っていき、そして閉ざされていく状況であります。誰も出入りしないようにし、ひっそりと息を潜めていた姿。これが、復活の出来事があった日の弟子達の様子でありました。

    そんな状況にあった弟子達は、空虚な墓を見て、主の天使からのお告げを聞き、そして主イエスに出会った、というマグダラのマリア達の言葉を聞きます。そしてその言葉に聞きガリラヤに行き、復活のイエスと出会っていきます。この復活の出来事を前にして、弟子達はどのように考えたでしょうか。
    もちろん、失ったイエスと再び出会えたという喜びがあったと思います。イエスに出会いひれ伏した、という弟子達の様子も描かれています。しかし、一度死んだ者が生き返る、ということは現代においても、そして当時の人々にとっても信じがたいことであったことに違いありません。弟子達の中にも、疑うものがいたとの記述がなされています。
    弟子達の疑いに関して、有名でな話として、ヨハネ福音書に記されるトマスについての物語が挙げられます。ヨハネ福音書の20章25節の後半部分、イエスの十字架の傷をみなければ、脇腹に自分の指を入れなければ、復活のイエスを信じられないと言い張る、そんなトマスの姿が印象的に描かれていきます。他の弟子達がイエスを見たという出来事を、トマスは信じることをしませんでした。この10日後に、イエスに傷を見せられ、初めて「私の主、私の神よ」との告白ができるようになっていきます。ここでの、トマスの疑い、というのは、イエス復活当時の弟子達の信仰の迷いや弱さというものを示しています。
    現代に生きる私たちはどうでしょうか。イエスをこの目で見て確認したり、または復活のイエスとの出会いというものは、遥か昔の、過去のものとなっています。
    トマスにとっても、そして私たちにとっても、キリストイエスを実際にこの目で見ることなく信じる、というのは大きな課題であります。特に復活のイエスについても、これをどのように理解していいのか、どのように受け止めたらいいのか、わからなくなる時もあります。肉体の復活はあるのか、霊によるものとはどういうものなのか、新約聖書の復活のイエスに関する言及は、さまざまに解釈されています。そのような考えの中、トマスのように、復活のイエスの傷痕、直接十字架の傷跡を見せてもらえれば、私たちも信じることが出来るのかもしれません。そういう意味では、私たちにもトマス的な懐疑的な気持ちを持っていると言えるかもしれません。
    人間は、自分の知識ではあり得ないような出来事、信じがたいことを目の前にした時、それを疑い自分の理解の範疇に押し留めようとするものであります。また、自分にとって都合の悪いことをなかったことにしようとします。その時不思議と、その努力や手間も惜しまず、嘘で嘘を塗り固めていくような、作業を繰り返すことによって、その場を乗り切ろうとするのであります。

    本日の聖書箇所で記される、番兵と祭司長達はどうだったでしょうか。
    復活という信じられない出来事を前にして、それを弟子達同様に疑う気持ちもあったと思います。それに加えて、番兵達の話が広まっていけば、彼らの威信や面目は丸潰れになるばかりか、神から遣わされたものを処刑してしまった、その責任も問われかねない、そんな状況にあったと考えられます。彼らは自分自身の身を守るため、多額の金を使ってでも、なんとしても「復活」という出来事をなかったことにしようとしていきます。
    その保身の行為の中には、その根拠には「恐れ」をいう感情があります。自分たちのしてきた行動について、そして、その行為をした自分、そのありのままの姿を知られる、ということに対する恐れもあったと想像することができます。
    このような祭司長達の姿、そして、私たちは復活のイースターの出来事の前、受難節において、人間という存在のありのままの、醜いとも言える様な姿を見てきました。しかしその様な人間の罪のあり様、弱さというのは、私たち自身も含めた、人間という存在の現実の姿が映し出されたものであります。
    そのような私たちに向かって、復活した主であるイエスは、マグダラのマリア達に告げたのと同じように、「恐れるな」との語りかけをしてくださいます。私たち人間がどんなに自分たちのありのままの姿を恥じていても、「恐れることはない」「私はいつもあなた方と共にいる」と語りかけてくださっています。
    復活の出来事があったその日、失意と絶望の淵に立たされた状況にある弟子達にも、震え隠れていた弟子達の、その真ん中に立って「私はあなた方と共にいる」との慰めの言葉を語っていきます。さらに、厳しい状況の弟子達に「私はあなた方を遣わす」と世に遣わしていく派遣命令を出していきます。どんな状況の中にあっても、閉じこまらずに、イエスを主として歩むことを促していく、励ましの言葉を語っていくのであります。
    この語りかけ、復活の出来事の後、弟子達は世に派遣されていきます。
    そして、この遠く離れたこの日本という土地で、そして2000年という年月が経った現代において、主イエスの復活の出来事が語られ、その御言葉を携えて歩んでいこうとする、私たちがいること、「復活」という今も昔にも信じがたいような、その出来事を、イエスから遣わされていった弟子たちを通して、そしてまさに今ここで語っていること、そこに希望があると思うのです。

    私たちは、復活の出来事を前にして、どうしていくのか。主と出会う時、どう歩んでいくのか。信じることが出来ない自分自身、そしてそんな弱さを抱えるありのままの自分自身を思い悩む時、主から与えられる「恐れるな」「私はいつもあなた方と共にいる」という慰めと励ましの御言葉を携え、それに感謝し信仰していく私たちでありたいと思うのです。そして日々自らを振り返り考えながら、御心に適った歩みをしていけるよう祈りつつ、歩んでいきたいと思うのです。
  • 主日礼拝(毎週日曜日 午前10時30分)
    ~次週礼拝予告~
    2021年4月18日(日) 復活節第3主日礼拝
    聖書:マタイによる福音書 12章38~42節、コロサイの信徒への手紙3章1~11節
    説教題:「新しい人を身に着けて」 石田 透牧師
    交読:詩編 116編1~14節
    (更新:2021年4月11日)
  • 聖研祈祷会
    日時: 4月22日(木)19:00~20;00
    場所: 教会2F 会議室
    (更新:2021年4月15日)
     
  • ランチタイム・メディテーション-No.739 
    2021年4月21日(水)12:00~13:00
    ‐オルガンと瞑想のひととき‐ org. 荒井牧子
    (オルガンの演奏は12:30より約20分間)
  • 礼拝堂見学について
     現在、礼拝堂見学は、新型コロナウイルス感染拡大防止対策のため
     中止しております。