お知らせ

  • 礼拝及び集会に参加する時は、マスク着用でお願いいたします。日々体温を測り、体調がすぐれない場合は参加を控えてください。よろしくお願いいたします。教会受付にて手指用の消毒液がございます。
    (更新:2020年8月6日)
  • 礼拝説教(2020.9.27)「羊は羊飼いの声を聞く」 石田 透
    ヨハネ福音書10:22-30 


    エルサレム神殿の境内に「ソロモンの回廊」というものがありました。イエスの時代のエルサレム神殿はヘロデ王によって再建されたものでしたが、この「ソロモンの回廊」はソロモン王が神殿を建立した時のまま残っていた、非常に古いエルサレムの人々の誰もが知る場所でした。
     その「ソロモンの回廊」でイエスさまはファリサイ派の人々に取り囲まれ、両者の激しい論戦が戦わされたのです。ヨハネ福音書5章から11章は、おおざっぱに申し上げますと、「イエスに敵対し、イエスを救い主として受け入れようとはせず、ひたすらイエスを拒否しようとする人々のただ中でなされた、神の子イエスの自己啓示」ということができます。「わたしは命のパンである」(6:35)、「わたしは世の光である」(8:12)、「わたしは良い羊飼いである」(10:11)などが代表的な自己啓示の言葉です。敵対者の不信と軽蔑のただ中で、イエスさまは毅然として自己を貫いていくのです。
    ヨハネ福音書では、イエスさまが語られたすぐ後で、必ずと言っていいほどにそれについての論戦が起こったということが記されています。論戦は幾度も繰り返されました。22節にそれは「冬であった」という言葉がありますが、これはきわめて象徴的な言葉です。イエスさまとファリサイ派の人々との長い論戦は時がたち、季節を巡り、もう冬の季節、最後の季節を迎えたのだ。つまりイエスさまと彼らとの論戦ももはや終りに近づいたことを示している言葉のように思うのです。このあと、イエスさまは論戦の中において言葉で示した一つ一つのことを、十字架へと向かうご自身の歩みの中で、具体的に証ししていくのです。

     では、ファリサイ派の人々をはじめとして、当時のユダヤの人々なぜあんなにまでイエスさまに食い下がったのでしょうか。
     まずその一つは、血縁主義と申しますか、むしろ血縁信仰といってもよいほどの「血」へのこだわりがあったのだと思います。本当のメシヤ、キリスト、救い主は、アブラハム・ダビデの血を引く、由緒正しき家柄に生まれなければならないという考えです。そのユダヤの人々の期待に、イエスという方は全くこたえていないと彼らは思ったのです。イエスさまの弟子選びの記事の中で、弟子となったナタナエルがイエスさまのことを初めて聞いた時、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)と言ったとあります。北の辺境の地ガリラヤを蔑んだ言葉です。そしてナタナエルが思わず発したこの言葉は多くのユダヤ人の一般的な考え方からくるものだったのです。しかし、多くのユダヤ人が持つ「自分たちはアブラハムの子孫なのだ」というこの血統主義は、聖書の信仰とは全く違うのです。バプテスマのヨハネは彼のもとにバプテスマ(洗礼)を受けに来たファリサイ派の人たちを含めた群衆に向かって、非常に厳しい言葉を語っています。「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」(ルカ3:8)ユダヤの人々だけでなく、私たち人間にはこのような血統主義、血へのこだわりが多かれ少なかれあるのです。私たちはそのことを自覚した上で、イエスさまから本当に大切なことを聞きとらねばなりません。
     いまひとつは、律法主義です。ユダヤの人々はイエスさまとその弟子たちによる律法軽視を問題にします。律法やぶりを糾弾します。しかし実体はどうだったのでしょうか。イエスさまは確かに、安息日に病人を癒されました。そのことをファリサイ派の人々は批判しました。ではイエスさまのなさったことは本当に批判されるような事柄だったのでしょうか。ファリサイ派の人々は、癒された人たちが抱えてきた苦しみ、癒された喜び、救われたという安堵の思いをどう受け止めるのでしょうか。ファリサイ派の人々は律法という教えを杓子定規に固定化し、それに固執するあまり、肝心の「法の精神」とその内容が見えてこなくなってしまったのです。神さまは何のために律法をつくられたのでしょうか。人々に恵みを与えるためです。人と人とが共に豊かに生きるためです。しかし神さまの思いと人の世の現実に大いなるずれが生じてしまっていたのです。それに対して、イエスさまという方は律法の文字面を超え、自由に律法の精神を生きることのできる方でした。イエスさまは神さまの本当の思いが何であるかを求め、一人ひとりの生命の重さを大事にされたのです。当時のユダヤの人々は神さまのためと言いながら、結局は「自分の誉」、「自分の義」を求めてしまったように思うのです。「律法」が自らを誇るものとして用いられたのならば、律法本来の意味はなくなってしまうのです。
     イエスという方は、私たちの牧者です。身勝手でわがままな羊のような私たち一人一人の羊飼いです。羊飼いは羊の名を呼び、羊は飼い主の声を聞き分けることができるほどその関係は愛と信頼とによって結ばれているのです。
    宗教改革者の一人であるカルバンは、「信仰とは、目を閉じて、耳を開くことである」と言いました。私たちは羊飼いイエスの声をしっかりと聞き分けているでしょうか。
     今日、私たちの周りは様々な声で満ちています。選挙の時の政治家の声高の演説、いろいろな呼び声、誘いかけの言葉が聞こえてきます。街に出ると、宣伝カー、客引き、セールスの声、宗教の勧誘など、まことに騒がしい時代です。言葉巧みに語りかける誘いについ引き込まれ、おぞましい罠に陥ってしまうことだってあるのです。
     人間はいつだって心に不安を抱えています。何か満たされぬ思いがあります。心の渇きがあります。何か強いものによって自分を支えてほしいという思いがあるのです。そんな時、人間は神ならぬものに巧みにからめとられ、心を奪われてしまうのです。
     「わが教え子ヒトラー」というヒトラーに演説指導した教授のことを描いた映画がありましたが、1930年代、ヒトラーという人物は、満たされぬ思いを抱いているドイツ国民の心に巧みにバラ色の夢を語りかけました。やがてドイツは破滅へと向かいました。戦時下のこの日本も同様でした。欧米列強を駆逐し、日本を中心とした大東亜共栄圏を築くのだという幻は、多くの国民、兵士を犠牲にし、あえなくついえてしまいました。
     私たちはいったいどのような声を聞き分けたらよいのでしょうか。「私たちの牧者」の呼び声は声高な宣伝ではなく、また言葉巧みな勧誘でもありません。大向こうを唸らすような圧倒的な演説でもないのです。それはむしろか細く、小さく静かな声なのです。声の大きさや、巧みさで惑わされてはなりません。
     預言者エリヤに対する神の呼び声は、「火の後の静かにささやく声」(列王記上19:12)であったと言います。この「とても静かでささやくようなか細い声」を鋭く聞き分ける耳が私たちには必要です。この声は私たち羊のことをよく知っている方の声ですから、耳をすませてよく聞き分ければ聞き間違えることはないのです。カルバンが言うように、「目を閉じて、謙虚な心を持ち、耳を開いて」聞くならば大丈夫なのです。盗人ではなく、牧者である方の真実の声をいつも聞き分ける一人一人でありたいと願います。


  • 主日礼拝(毎週日曜日 午前10時30分)
    次週礼拝予告
    2020年10月4日(日)聖霊降臨節第19主日
    -世界聖餐日・世界宣教の日-
    説教:『響く声を追って』 石田 求 宣教師
    聖書:使徒言行録 10章9節 ~ 33節
    交読:詩編 34編12節 ~ 23節
    (更新:2020年9月27日)
  • 子どもの礼拝のお知らせ
    9月6日より再開します。
    (更新:2020年8月30日)

  • 聖研祈祷会
     10月1日(木)は都民の日で休会です。
    日時:10月8日(木) 19:00~20:00
    場所:教会ホール
    聖書:サムエル記下11章
  • ランチタイム・メディテーション -No.708-
    2020年9月30日(水)12:00~13:00
    ‐オルガンと瞑想のひととき‐ 
    Org.新妻由加
    (オルガンの演奏は12:30より約20分間)
  • 礼拝堂見学について
     現在、礼拝堂見学は、新型コロナウイルス感染拡大防止対策のため
     中止しております。 
  • 原宿教会・原宿幼稚園バザーについて
     2020年10月11日(日)に予定しておりました「原宿教会・幼稚園バザー」は中止とさせて頂きます。
     (更新:2020年6月16日)