教会だより

No.34  2009年9月20日

敬老祝福に寄せて

牧師 石田 透

年輪

私は樹木の年輪をみて
わが生涯の年輪を思う。
幸福な人生の春にはのびのびと成長し、
きびしい試練の冬にはちぢこまった痕を残し、
年ごとに層を加え、
数えてみれば六十にあまる同心の円輪である。
少年の日、水に溺れようとして友に助けられ、
青年の頃胸を病んで
人生に望みを失った時、
キリストによって救われた。
戦はげしい時には、
爆弾や焼夷弾が
雨のように降る都心に住んでいたが、奇跡的に生き残された。
ああ主よ!
私の時はあなたのみ手にあります。
私はかって無価値な苗木にすぎなかった。
だが今、
いささか価値ある僕であるとするならば
それは全く
年輪を重ねることをゆるして下さった
主の恩寵の故なのである。

(松田明三郎)


 若き人々はこの夏、様々な経験をいたしました。「教会だより」に記された東日本ユースキャンプの報告記を読んでいると、本当に楽しく、有意義な経験だったことが伝わってきます。私もかつて同じような心動かされる経験をいたしました。懐かしくそれらのことが思い出されます。

 「青春の日々にこそ、お前の創造主を心に留めよ。」(コヘレトの手紙12:1)と聖書は語ります。この夏の経験の一つ一つが生涯その人の糧となり、やがて神を知り、人を知り、それらと共にあることの恵みを知り、その恵みによって生きていってほしいと心から願います。

 また聖書は「老人たちよ、これを聞け。この地に住む者よ、皆耳を傾けよ。」(ヨエル1:1)と語ります。長い人生を耐えて生き、経験から世界のことを深く学んできた老人に主の出来事の証人となることを促すのです。苦難の時代の目撃者である老人は、新しい時代の転換を迎え、新たな「夢を見る」(ヨエル3:1)ことを得るのです。

 私は信仰の先輩方に、皆さまが経験された「主の恵みの出来事」を心より語っていただきたいと願っています。熱く語るか、あるいは枯れて語るか、その表現は人によってそれぞれです。その方法は個人に委ねられています。どうぞ「証しによる礼拝」で皆さまが証人として語られたように心の内をお語りください。私たちは感謝をもって聴いていきます。誰かが経験した「恵み」は分かち合うことによって意味が増し、深められるのです。その恵みは個人を超え、教会という共同体全体の恵みとなるのです。

 「老い」のしるしは、肉体的にはまず目に現れるといいます。私もすでに老眼鏡なしには、新聞も聖書も読めませんし、自分の書いた説教原稿すら読むことができません。人は若き日には、絶望的な経験をしてもそれを乗り切る力に満ちています。「雨の後には必ず晴れが来る」という希望がそうさせるのです。しかし、「雨の後にはまた曇り空が来る」のが高齢者の生きる現実です。目はかすみ、手足はふるえ、記憶力は鈍っていきます。それはまさに「重荷」です。しかしこの「老いの重荷」は神の賜物なのです。賜物であるからこそ、それは教会の交わり全体で分かち合うことが大切なのです。