教会だより

No.66  2021年12月5日

言は肉となりこの世界に宿られた

牧師 石田 透

 
コロナ禍の中に置かれた混迷の一年が過ぎようとしています。私たちの心を押しつぶすかのような閉塞感は依然としてこの世界全体を覆っています。私たちは一体どこに希望を見い出し、どのように新たな歩みを始めたらよいのか直ちには分かりません。でもそんな時だからこそ、主の導きを信じ、聖書のみ言葉そのものから希望を与えられ、歩み直していきたいと思います。
 
新約聖書ヨハネによる福音書一章一四節のみ言葉です。神さまの人を救うというその約束の「言」が「肉となって私たちの間に宿られた」のです。そしてその方は「恵みと真理とに満ちて」います。イエス・キリストは肉体をとってこの闇の世界に来られました。私たちが「耳で聞き、目で見て、よく見て、手で触れる」(一ヨハネ一:一)ことのできる存在として、この世界に来てくださったのです。
 
ところで私たちは高いところから地上を見下ろしたことが一度や二度はあると思います。スカイツリーや東京タワーの展望台などから地上を見降ろすと、人や家や車が小さく見えて気分がいいです。小さなことはどうだっていいようにも思えてきます。人間関係に躓いたり、他人との争い事に疲れたりしたときなど、高いところに上るというのは、その人の心を浄化させてくれる貴重な瞬間です。心の中の悩みや、人間同士の争い事などはちっぽけで取るに足りない事柄だと思えて、前向きに生きていく一つのきっかけになるのかもしれません。ではずっと天におられて、人間のことを見ておられる神さまは、一体どんな思いで私たち人間の営みをご覧になっているのでしょうか。いわゆる「上から目線」で「そんな瑣末(さまつ)なことに心奪われて情けない」と思われているのでしょうか。私はそうではないと思うのです。一人ひとりの日常の小さな営みに心寄せ、その悩みに心痛め、その危うい生き方にハラハラしながら見ておられる。それが私たちの神さまだと思うのです。
 
そして神さまはついに決断されたのです。「キリストは自分を無にして僕の身分となり、人間と同じ者になられた」(フィリピ二:七)イエスさまは神さまと等しい身分であったのにそれを捨てたのです。人間と同じ立場で、人間と一緒に悩み苦しむことこそが、人間を本来あるべき姿に戻していく唯一の道だとイエスさまは思われたのです。彼は人と一緒に苦しむことを覚悟されました。むしろ傷つくことを恐れ、傷つくことを避ける私たちの身代わりとなって自らが傷つき、ついにはその命さえささげて、愛することの豊かさを示されたのです。ちっぽけで情けない、この私と共に生きるために主が傍らに立ってくださるのです。それどころか、この私よりも低いところにさえ主イエスは降りて来てくださるのです。
 
「言は肉となって私たちの間に宿られた」。このみ言葉が一人ひとりに与えられていることに心から感謝します。そしてこの美しいみ言葉を心に刻みつつ、このみ言葉に貫かれ、歩み直したいと思います。イエスさまが私たちと共に居てくださいます。イエスさまが私たちを励まし、私たちを立たせてくださいます。感謝をもってこのみ言葉を聞き、そこに示された真実を周りの方々と共に分かち合いたいと思います。神さまが私たちに命を与え、それを支えてくださるのです。その恵みに喜びを感じながら、新たな思いで共に歩み続けて行きましょう。