教会だより

No.38  2011年2月6日

あなたたちの神を見よ

牧師 石田 透

 イザヤ書は全部で66章からなっていますが、40章以下の部分は第二イザヤと呼ばれています。さらに55章以下を第三イザヤと区分する場合もあります。当時のイスラエルは長い間のいわゆるバビロン捕囚からやがて解放され、エルサレムに戻り、ほどなくしてエルサレム神殿の再建に取り掛かるという、時代が大きく転換していく過渡期にありました。民族と国家とが大きく変わっていく、不安と希望とが交錯するような時代でした。いまだ困難な状況が続くけれども、とにかく前に向かって進んでいこうと希望をもって歩み出そうとしていた時代です。そんな時代にあって、預言者イザヤはすでに地上での生を終えていましたが、イザヤの言葉から大いなる励ましを受けていた無名の預言者たちが、イザヤを偲び、イザヤに代わって希望の言葉を書き連ねたのがこの第二イザヤ・第三イザヤと呼ばれる文書です。彼らのテーマは「あかつき」―夜明けです。困難な中、夜明けを待ち望みつつ希望を持って生きる。それが第二イザヤ・第三イザヤに共通するテーマなのです。

 希望の前の苦難の時、言わば終末論的状況の中で記されたこの言葉は、今を生きる私たちにも目覚めと励ましと促しとを与えてくれます。地球環境の悪化等の現実を考えますと、私たちもまた、終末の時を生きていると言ってよいのかもしれません。夜明け前を不安を抱えながら必死で生きている者に、何を希望として望み見たらよいのか、第二イザヤ・第三イザヤは熱く語ります。そのような苦難の時代にあって、慰めを与えてくださる主の声をまずは聞きなさい。その声があなたたちを立ち上がらせると説くのです。これはまさに福音の言葉です。旧約聖書中、福音を最も鮮明に語る箇所がこの箇所だと言ってよいと思います。

 40章1-11節は第二イザヤの序曲とも言うべき箇所です。その内容はまさに福音の告知です。「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と。」(1-2節)そのような言葉から始まり、3節以下、荒野で呼びかける声に心開く民は、希望へと、未来へと導かれるのだと語られます。そして8節、「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」さらに一一節、「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、子羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」

 心開いてこれらのみ言葉の一つ一つを味わいながら読んで行くと、私たちは本当に大いなる励ましを与えられます。私たちが置かれている現実がいかに行き詰まっていても、私たち人間が作り出すこの見える現実が困難な要素に満ち、八方ふさがりであったとしても、私たちは主に在って既に救われている。主の恵みは十分であると聖書は語ります。言わば、そのような「もう一つの神の現実」に目を向けて行くことが、主が招く信仰者としての生き方なのです。そこにおいて私たちは、見える現実だけに明け暮れている人々、見えるこの世の現実だけに捕らわれている人々には理解し得ない大きな希望と喜びと力とを与えられます。ですから、この世のものに目を奪われ、人の声に耳を奪われやすい弱き者である私たちは、今一度「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。」というこの第二イザヤの言葉、「あなたがたの神を見よ、見上げよ。」という力強い呼びかけの前に、心開いてもう一度信仰の姿勢を整えて歩んでいきたいと思うのです。