教会だより49号 

2015年3月発行

求めよと主は言う    牧師 石田 透

 イエスさまは宣教の始めに「求めなさい。そうすれば与えられる。」と言われました。宣教の旅の半ばには「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすればそのとおりになる。」と言われました。弟子たちへの最後の説教の中で「今まではあなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」と言われました。

 イエスさまは福音の喜びを全ての人々に与えるためにこの世界に来られました。本当の人間としての生き方を全ての人に伝えるためにイエスさまはこの世界に来られたのです。そして、イエスさまの与える業は、ご自身が受ける苦難の出来事、十字架において頂点に達しました。イエスさまはご自身が血を流しその体を裂くことによって、人々にご自身の全てをお与えになったことを明らかにされました。単に言葉ではなく、その存在の全てを捧げることを通して、イエスさまは与えることを貫かれたのです。

 イエスさまは与えます。そして私たちはそれを受け取ります。イエスさまはご自分が与えようとされるあふれるばかりの愛が、全ての人に向けられたものであることを、全ての人が受け止めて欲しいと願っています。イエスさまはたとえ私たちがイエスさまに背を向けていても、愛をもって近づいてくださる方です。背を向けている私たちの背中をとんとんと叩き、やさしく声をかけてくださる方です。イエスさまはそういう方です。しかし、イエスさまは私たち一人一人が、イエスさまの正面に真っ直ぐに立ち、相まみえることを強く望んでおられます。与えられるということを、全存在をもって求めることを通して受け止めて欲しいと願っているのです。ただ漠然と与えられるのではなく、渇きを潤す泉を求めるように、弱さを覆う慈しみを求めるように、心からその愛を求めてほしいとイエスさまは願っておられるのです。

 「求めよ」とイエスさまは呼び続けます。しかし人間は求め続けることを途中でやめてしまいます。求めの中で自ら失望し、求めざる者へと向きを変えてしまいます。でも真の求めとは人間の功利性追求のようなものとは根本的に異なるのです。一人のカナンの女性は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」とのイエスさまの言葉に対して、「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」とくいさがりました。真の求めとは彼女のようにイエスさまの心の内側にまで食い込み、その心を揺さぶるような人間の存在を賭けた極めて重いものなのです。彼女をそこまで突き動かしたもの、それはつらい苦難の体験であり自らの弱さの自覚です。この苦しみを癒し、この苦しみを共に担ってくださるのはイエスさまをおいて他にはいないのだという確信が彼女を突き動かしたのです。自らがいと小さき存在、弱き存在であるが故に、イエスさまから何度拒否されようとも、弱き存在である自分はイエスさまを頼るしかないのだという思いが彼女を支え続けたのです。

 その時、弱さや苦しみは私たちとイエスさまを結ぶ恵みそのものとなるのです。私たちは自分自身の弱さをもはや嘆くことはしなくともよいのです。私たちは弱さを抱え、弱さを引きずりながら、主と出会うことがゆるされているのです。イエスさまは心より求める者を求めました。その時、求める者には喜びが増し加わるのです。イエスさまはその生涯の至る所で主を求める者を招きました。イエスさまは、今も私たち一人一人が心から求める者になるようにと招いておられるのです。

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