教会だより47号 

2014年4月20日発行

イエス、弟子たちの足を洗う    牧師 石田 透

 「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」 (ヨハネ福音書一三:一三〜一七)

 最後の晩餐の前に、イエスさまは弟子たちの足を洗いました。美しい場面です。十字架へと向かうイエスさまの最後の一週間の歩みの中で、この出来事はもっとも重要な意味を持つ事柄です。この行為は、これからイエスさまが受けるであろう十字架の苦難をも先取りするような、きわめて大切な行為でもあったのです。

 もともと「足を洗う」ということは、旅人が長い旅路を経て、無事にたどり着いた宿泊の地でのくつろぎと憩いの時の始まりを意味していました。人は重い荷をほどき、足を洗って心も体もリラックスするのです。また、乾いた砂漠地帯に生きる人々にとって、一日の労働を終え、汗とほこりにまみれた足を洗うということは、一日の感謝と夕食という一家だんらんの時が始まる、一日で最も満ち足りた時なのです。

 しかし、その「憩い」の時の始まりとしての「洗足」が、タテ社会、上下関係を固定化する奴隷の仕事へと変質してしまったことは大きな皮肉です。

 イエスさまはそのことを逆手に取り、まさに奴隷の仕草をもって弟子たちの足を洗うのです。イエスさまが奴隷の仕草をもって弟子たちの足を洗い、「互いに足を洗い合いなさい」と求めたことに対して、弟子たちは大いに戸惑いました。なぜならば、イエスさまが自ら行い、また弟子たちにそうするようにと求めたその行為は、まさに「奴隷」の仕事だったからです。しかし、イエスさまのその行為は、タテ社会の硬直した非人間的な体質を打ち破るためには、どうしても必要だったのです。

 キリスト教会はイエス・キリストを主と仰ぐ信仰共同体です。私たちは人と人とが共にあることを喜び、「憩いの場」「憩いの時」として、与えられた交わりを感謝をもって生きるのです。神さまから与えられたいのちを、この交わりを通して「互いに」分かち合うのです。「互いに」というのは、ヨコへの拡がりを持つ言葉ですが、イエスさまが「互いに足を洗い合いなさい」と言われたことは、本当に重要な意味を持つことだと思います。

 「互いに心から憩う」ために、私たちは身を低くして「互いに足を洗い合う」のです。そのことを、イエスさまからしっかりと学びながら、与えられたそれぞれの日常を誠実に生きていきたいと思います。そして、ささやかではあるけれども、そのような地道な歩みこそが、やがて世界の何かを変えていくことを信じて歩んでいきたいと思います。

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