教会だより46号 

2014年2月16日発行

土の器に納めた宝    牧師 石田 透

 「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並はずれて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現われるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現われるために。」(IIコリント四:七〜十一

 「土の器」という言葉は危うさ、弱さ、はかなさ、つつましさを漂わせる魅力的な言葉です。キリスト者はへりくだった自分や、弱い自分を言い表そうとする時、しばしばこの言葉を用います。しかし注意しなくてはなりません。それは知らず知らずの中に、この言葉が謙遜への装いとなってしまってはいないかということです。へりくだりを美徳とする日本人的な感性にはおさまりがよい言葉ですが、私たちはこの言葉を日本人的な感性から解釈するのではなく、聖書本来の語るところをしっかりと聞き取っていかねばならないのです。この言葉は人間の謙遜やへりくだりを表現するために用いられているのではありません。「真のへりくだり」や「真の謙遜」があるならば、「適当な謙遜」はかえって真実を覆い隠すことになるのです。「真のへりくだり」や「真の謙遜」を私たちはイエスその人に見ることが出来ます。「キリストはへりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ二:八)。私たちは、土の器に納められた「宝」にこそ目を向けるべきです。その宝こそ十字架に死なれたキリスト・イエスです。

 そもそも「土の器」という言葉は、もろい器という性質を表すために用いられているのではありません。金や銀の器のように飾られた観賞用の器ではなく、日々用いられている器という意味です。つまり器自身の性質ではなく、器が用いられている状態を示しているのです。「土の器」とは豊かに用いられている器ということです。パウロにとっては、イエスの死と命に結び合されている自分の状態のことを言うのです。

 「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けた」(ローマ六:三)とあるように、パウロは「この宝」を日々イエスの十字架に結びついて生きる、その自分の生きざまの中に持っていると言います。「イエスの死をこの身に負う」とは、なまじっかな所に留まらないということです。イエスの命が自分の死に場所とも言うべきところに現われるのが信仰による生き方なのです。

 パウロは「絶えずイエスのために死にさらされています」と言いました。彼は病気など固有の苦しみを抱えていました。幾度も患難や迫害を体験しました。彼はその体験をイエスの死を身に負うことへと結びつけたのです。そして途方に暮れたあり方、八方ふさがりの現実の中で、まさにその所に宿るイエスの命をリアリティーをもって感じ取っていったのです。

 日常の経験が適当な所に留まりがちな私たちですが、自分の出会う一つひとつの出来事がイエスの十字架の死へと結びつくまでに、自分の生というものが深まりゆくことを祈り求めたいと思います。イエスの命がこの身に現われる者でありたいと心から願います。自らが「土の器」であることを誇るのではなく、そのことに密かに酔うのでもなく、その器にイエスの命が納められていることを私たちは喜ぶのです。

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