教会だより45号 

2013年10月6日発行

主と共に祈る    牧師 石田 透

 イエスさまは祈りの人でした。朝起きて暗いうちに祈り、弟子たちや民衆と共に祈り、また一日の仕事を終えて一人になり、隠れたところにおられる父なる神さまに向かって祈りました。祈りを通してイエスさまは神さまと向き合い、日々歩む力を与えられ、行くべき道を示されました。祈りの大切さを知るイエスさまは、弟子たちにも祈りは信仰生活を続けていく上で最も大切なことだと勧めます。祈りこそ人が生きていく上で必要不可欠なものであると言われるのです。人はその人生の道のりを歩む時、迷います。戸惑います。その時、謙虚に神さまの導きや励ましを求める唯一の方法が祈るということなのです。

 イエスさまは弟子たちを伴って、祈りの場であるゲッセマネの園へ行かれました。しかし弟子たちは、イエスさまと一緒に目を覚まして祈ることができませんでした。弟子たちは祈りにおいて、イエスさまを支えることができませんでした。イエスさまの祈りは徹底的に孤独な祈りとなりました。それは十字架への孤独な出発となりました。イエスさまは深い孤独感を味わいながらも、それを丸ごと受け入れていきました。もし、私たちが一人苦しい魂の叫びのような祈りをした後、周囲にだれもいないことを知ったならば、どんな思いになるのでしょうか。だれも自分のこの苦しみを知らない、叫びを知らない、だれも一緒に祈ってくれない。自分はたった一人でこの孤独な戦いを戦うのだと知ったならば、どんな気持ちになるのでしょうか。絶望的な思いになります。しかし、イエスさまはあえてそのことを引き受けるのです。それは一体なぜでしょうか。それはそのことが神さまの御心だからです。徹底的に御心を求めるイエスさまのその姿、その祈りは私たちをいつも圧倒します。

 祈りというのは、本質的にはそのように孤独なものかもしれません。真剣に祈ろうとすればするほど、いっそう自分の内面と向き合うことになります。真実な祈りの内に、人は孤独に成らざるを得ないのです。そして私たちは真実な祈りをするほどに、神さまから遠いことを知らされます。それは耐えがたいほど苦しいものです。祈れば祈るほどに人は苦しくなります。一体だれが真実の祈りをすることができるのでしょうか。本当に祈れる人は少ないのかもしれません。私たちは祈りの大切さを知りながら、孤独に耐えきれず、真実の祈りを放棄してしまうのです。

 しかしイエスさまという方は、その祈りを祈りきられたのです。霊と肉との間に立ちつつ、苦しみながらその祈りを祈りきられたのです。人間の心の奥深くにある私の思いではなく、父なる神の御心に対して、自分のすべてを明け渡していく道をイエスさまは選び取ったのです。

 イエスさまは私たち一人ひとりを、共に祈るパートナーとして招いていてくださいます。イエスさまは祈りの場へと弟子たちを伴って行かれました。しかし弟子たちは共に祈ることができませんでした。祈りの質を失っていました。しかし、イエスさまは弟子たちがそうであっても尚、彼らを励まし続けるのです。招き続けるのです。

 弟子たちへのこの招きは、私たち一人ひとりにも向けられています。私たちはイエスさまの弟子たちよりももっと無力な存在です。自分の思いではなく、神さまの思いをひたすら求めるほどの強い信仰の持ち主ではありません。しかしイエスさまは全てをご存知の方です。私たちがもろい土の器であり、弱い心しか持ち得ない限界づけられた存在であることを、全て知っておられるのです。それにもかかわらずイエスさまは、尚私たちを共に祈る相手として求めておられるのです。

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