教会だより秋43号 

2012年9月30日発行

信仰によって   牧師 石田 透

 この夏、京都への短い旅をした。目的は隔年ごとに開かれる同志社神学協議会出席であるが、長男と次男がその町に住み、また久しぶりの京都なので、妻と娘を誘って夏の京都を楽しんだ次第である。私が協議会出席中、二人は東山の銀閣寺近く、哲学の道散策を楽しんだ。その後、北は大原の里の三千院、南は伏見稲荷大社、西の嵐山・嵯峨野まで足を延ばした。かつて住んでいた町でもあるので思い入れもあるが、夏の京都も美しい佇まいであった。宿は修学院、京都盆地を見ることができる。東山などには寺社の屋根や建物が見え隠れする。京都を語る時には、自然と寺社仏閣を切り離すことができない。まことに美しい世界である。

 一般に日本人は宗教心と美意識とを渾然一体として所有していると言われている。美意識というのはおのおの違うものであり、「私」はこう思うとか、「私」はこう感じるといった「私」の価値の世界の事柄である。主観の世界の事柄である。であるから、宗教心と美意識が渾然とした中から出てくる信仰というものは、どうしてもその人の個人的な価値観や考え方に依存する傾向が強くなる。信仰と決断は密接につながっている。決断がなければ私たちの信仰は出発しない。しかし、人間の決断がそれを完結させるのではない。

 一六世紀の宗教改革に端を発するプロテスタント・キリスト教の基本原理は「信仰によってのみ義とされる」ということであった。しかし、残念なことにこの「信仰によって」ということは、しばしば誤解されてきた。マタイ福音書9章20節以下に、12年間も重い病気を患っていた女性の話が出てくる。この中でイエスはこの女性に向かってこう言った。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」この言葉を私たちはどう理解するのだろうか。このイエスの言葉は、その人の信仰の熱心さや立派さが彼女に救いをもたらしたという意味では決してない。聖書の中で語られる信仰の力というのは、信仰する者の持つ力ではなく、信仰されている対象の持つ力のことである。それは私たち人間の側にはない。イエスの中にこそあるものだ。そうでなければ、「いわしの頭も信心から」ということになってしまう。宗教改革者ルターが語った「信仰によってのみ」というのは、まさに、「恩寵によってのみー神の恵みによってのみ」(ローマ3:24)ということなのである。

 「信仰によって」というのは人間の側の工夫や営みによって、神との間の断絶をなんとかすることができるという思いを断念することではないだろうか。人間の思い上がりを放棄していくことではないだろうか。もしも人間の可能性や努力で人間が義とされるのであれば、もはや信仰もイエスの十字架すらも不要ということになる。人間の心の持ちようや人間の行いですべてがなんとかなるのだから。

 ヘブライ人への手紙11章には「信仰によって」という言葉が繰り返し語られている。この「信仰者列伝」は元来、人々に旧約聖書に記されている神の救済の歴史を学ばせるための教育的意図を持った文書であった。人々は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」を学んでいった。私たちはここに登場する者たちが、自分たちの主観や思い込みで勝手気ままに行動したのではなく、自らが神に向き合い、自らを神にささげることを通して自分の歩むべき道を見出していったことに気づいていく。

教会だよりへ戻る