教会だより春42号 

2012年4月8日発行

ユダの罪?                    牧師 石田 透

 復活の朝、私たちはイエスさまから「生き直しの喜び」「再生の希望」を与えられます。それはすべての者に与えられた恵みです。しかし残念なことにその復活の朝の喜びに与ることなく、自らイエスさまに背を向けてしまった者がいます。イスカリオテのユダと言われている人物です。イスカリオテのユダは謎の多い人物です。なぜユダがイエスさまを裏切るに至ったのか。それは永遠の謎と言っていいかもしれません。ユダは一体誰であったのか。ユダとは何であるのか。それは全ての人間の内なる負の可能性であるのか。そして、私たちが今「ユダ」を考えるとはどのようなことを意味するのか。福音書にあらわされたユダがどのような存在であったのか少し考えてみたいと思います。
ユダという名前はイスラエルにおいては極めて普遍的な名前です。由緒ある名前で、旧約聖書にも新約聖書にも何人ものユダが登場します。名前の意味は「ほめたたえる」とか「賛美」という意味で、本来はとても美しい名前なのです。しかし、「賛美」を意味する正統的な名を持つユダは私たちの知るユダではありません。多くの者がユダという名で思い起こすのは、異端者ユダ、裏切り者ユダの姿なのです。

 ユダはイエスさまをはじめとする北部ガリラヤ出身者で固められた弟子集団の中にあって、一人例外的に南部モアブの出身でした。また、ユダは「会計係」であったとされています。そうであるならば、あのイエスさまを中心とした極めて自由な集団の中では、苦労が多かっただろうと思います。人知れず這い回って活動資金を工面するユダの隠れた努力の上に、あの自由なイエスさまの生き方があったのかもしれません。それが果たして事実であったのかは定かではありません。私たちはただ推測するしかないのですが、様々な葛藤の後、ユダはついにイエスさまを売り渡してしまったのです。
 私たちは一人の人間を甚だしい悪者に仕立て上げることによって、多くの人間の内にある悪の心を解消するという心的操作を行います。ユダはかくして裏切りや背信という全ての人間の内に潜む感情を代行させられます。しかし、これほどの根元的かつ主体的な問題を、ユダ一人だけに負わせてよいはずはありません。あの最後の晩餐の場面の、イエスさまの言葉に対する弟子たちの反応。すなわち「主よ、まさか私ではないでしょう」と答えた弟子たちの言葉の中に、人間の危うさ、弱さが全てあらわにされているのです。私たちの誰もがユダとは全く別の所に立っているのではないのです。私たちはユダ一人を断罪し、罪からの部外者として、自らの「聖さ」を主張することはできないのです。
ユダは自分の理想とイエスさまの実像が異なっていた時、イエスさまを引き渡してしまいました。結果としてユダにとって、イエスさまは自己実現の手段にしか過ぎなかったのでしょうか。ユダによって権力の手に引き渡されたイエスさまは十字架にかけられました。しかし、まさにその十字架によって私たちはゆるされ、生かされているのです。

 「イエスさまを引き渡そう」とする存在から「イエスさまによって神へと引き渡してもらおう」と決意する存在へと変えられたいと思います。

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