教会だより30号 感謝号(抄)

ガリラヤの春   牧師 土橋 晃

 十数年前のことだ。渋谷にある某放送局職員の聖書研究会の講師をしたことがある。数年間続いた。お昼休みの短い、時間を利用したものだが週一回、コンスタントに幾人かの職員が集まった。色々な教派からの参加者がいて、教会の聖研とは違った面白さがあった。

 会が終わると、局内の食堂で昼食をとる。たまには隣のテーブルで、有名女優がラーメンをすすっているのを横目で見たりして、ミーハー的興味でも満腹したものだ。

 興味といえば、最初の頃、違和感があったのは挨拶である。お昼でも夜でも「おはようございます」という。もう一つは、お互いに呼びかけるのに多くの人が「○○チャン」だ。いい大人が、それも某有名大学を出て管理職として辣腕を振るっている聖研のメンバーが、である。業界用語?だろうが、慣れるまで相当時間を要した。

 後者は、管理的な職場の中でことさら人間的な「親しさ」を強調する慣用句なのか。親密な交わりがなくても「チャン」である。非人間的な関係ではない様にとの願いが込められているのだろう。

 私たちは、パーソナルプリンシプルとコミュニティプリンシプルのバランスの中で生きている。すなわち、個人的原理と集団的原理、である。そのどちらかに偏ると問題が起こる。個人」が強調されると、もの事が曖昧になる。しかし当事者は「温かい」と満足だ。『集団」には軸足があると、組織としてうまくいっても、人は「冷たい」という。

 教会も同様である。お互いに「○○チャン」と呼び合うのは楽しいが、全員が『チャン」的関係を持てるわけではない。一方、人間的交わりよりも信仰の兄弟姉妹であるといっても、形式的だ。両者とも実体のない「原理」となってしまう、「知に働けば角が立ち、情に棹させば流される」と偉い先生もいっている。

 かつてのイエスの弟子たちの様子を思い出してみたい。「ガリラヤの春」を謳歌して、楽しさいっぱいの弟子たち、自分こそがイエスからいちばん愛されていると感じ、イエスが出世したあかつきには、右大臣、左大臣にと夢と希望に胸を膨らませていた彼は、まさに個人原理に生きていた人々だった。

 弟子たちばかりではない。イエスの周りにいた大勢の人たちも同様であった。それぞれに「行いにも言動にも力ある預言者」としての期待をイエスにむけていた。だからこそ、十字架のイエスは失望そのものであり、「躓き、愚か」以外の何ものでもなかった。

 「○○チャン」と呼び合っているうちはよい。しかしそれがどんなに脆いものであるか、私たちも折にふれ体験する。イエスを否認したペトロ、失意を語り合うエマオ途上の旅人たち、そのして私たちそれぞれに、十字架と復活の主イエスが共にいてください、個人原理だけにしがみついて生きなくてもいいのだと語りかけてくださっている。

 二人の旅人が、もう一度エルサレムへと踵を返したように、あのペトロが、ローマから逃避の道を再び引き返したように、パーソナルプリンシプルでは思いもかけなかった方向転換がそこに生起している。復活のイエスとの出会いは、私たちの人生の歩みのターニングポイントとなる。

 個人的親しさや思い出に生きるだけではなく、新しいいのちに生かされる生の始まりである。パーソナルな「ガリラヤの春」は今やコミュニティの「ガリラヤの春」ともなっていく。「春」を求める歩みは「春」からの新しい歩みとなっていく。

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