教会だより29号 クリスマス号(抄)

『偽』時代とクリスマス   牧師 土橋 晃

 いささかショックだったのは、「今年の漢字」に選ばれたのが『偽』だったことだ。全国公募により「世相漢字」だから、多くの人たちが抱いた今年の印象である。豪筆を揮った京都清水寺の森管主が「二度とこのような字を書きたくない」と語っていたが、その心情はよく理解できる。

 昨年が『命』その前が『愛』だったことを思うと、管主ならずとも、嘆きたくなるというものだ。次々に偽装が発覚した。「建築偽装」「食物偽装」など「偽」という文字を見ない日がない状況は、日本人の心が「バレなければ何をしてもよい」とマモン(富)教に帰衣したのではないかと思わせる。

 有名な老舗が当然のことのように偽装しているのを見ると、創業精神である「家業」としての愛着や誇りが、いつの間にか「企業」としての拡大策や収益重視に変質していった跡を知る。「教会も企業的センスを持つべし」と主張する人もいるが、同じ轍を踏まないように祈りたい。

 もっとも、昔から「偽」は人間社会の根強く存在した。聖書の世界も例外ではない。「偽教師」「偽使途」「偽の兄弟」「偽メシア」「偽物造り」「偽預言者」などへの警告が繰り返し語られている。初代教会がどれだけ「偽」に悩まされていたか、その根は深い。

 嘘つきコンテストの優勝者は「自分は生まれてこのかた、嘘をついたことはない」と語った人だという寓話があるが、程度の差はあれ嘘をつかない人間はいないだろう。昔は「お天道様が見ていると自制したものだ。「恥の文化」ではないが、恥ずかしいと思ったものだ。ところが今や恥も外聞も捨てて「偽装」に走っている。

 クリスマス物語のヨセフは、マリアの懐妊を知り悩んだ末に離婚しようとする。現代は悩まずに離婚する人たちがいる。「偽装離婚」だ。ある保育園長の話しでは、保育料を安くするために一度離婚するケースが結構あるという。片親家庭は保育料免除になることが多いからだ。そういえば、あの「建築偽装」の時に、某経営コンサルタントが財産保全のために偽装離婚したと批判されたことも記憶に新しい。

 くらい話が続いた。明るい?「偽」の話しもしょう。「旅の衣は篠懸の」と謡だす歌舞十八番「勧進帳」である。兄頼朝に追われる弟義経が命がけで守る弁慶と家来たち、その気概に心動かされた関所守の富樫は義経一行を見逃す。そこで読まれる勧進帳は白紙の「偽物」。一行の山伏姿も偽物だ。この偽造に観客は感動する。登場人物も観客も偽装をしりつつそれを認めている。何故か。嘘をついてまで必死に生きようとする姿に、また、嘘と知りつつそれを受容した姿に、自分を重ね合わせて感動するのではないか。

 私たち人間は、偽、嘘を抱えて生きている。偽装のない無菌状態では生きることは出来ないであろう。ただ、それを当然のこととして生きるのか、嘘をつかなければならないいい加減な生き方を見つめ、にもかかわらず主の赦しを信じていくのかで、大きな差異を生ずる。

 主イエスの前で、肝心な時に居眠りをした弟子たち、「私はけっしてノ」と偽装して、しかし後で激しく涙を流したペトロを、十字架の赦しへと招いてくださったイエスによって、彼らは懸命に生きる道を歩みだしたのだ。

 『居眠り』さざるをえない弱さ、偽装と嘘も適当に用いなければ生きられない私たち、それを赦して共に担ってくださるイエスを信いて、精一杯生きていきたいものだ。主の来臨、クリスマスを心から喜びたい。

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