教会だより28号 (抄)

祈りを忘れない教会   牧師 土橋 晃

 教会諸集会の定番に「聖書研究会・祈祷会」がある。当教会は、二十数年前には行われていなかったが、赴任早々に始めることにした。「ゲツセマネの祈り」に因み、木曜の夜とした。

 大方の教会がそうであるように、終日の夜はなかなか人が集まらない。それでも、数人の熱心なメンバーに支えられて現在も続いている。中でもH姉は殆ど休まずに出席し、時には一人ということもあったが、参加者ゼロの時は殆どな無く、開始以来継続できていることは、特筆に価するl。

 会の前半に聖書を学ぶ。文書の背景や執筆の動機用語の意味と現代へのメッセージ等を、あまり専門的にならずに解説する。「研究」ではあまりに堅苦しいので、いつ頃から「聖書を読んで祈る会」呼称を変更した。お祈りも、個人的な祈りと共に教会の公の祈りの場として、「執り成しの祈り」を共にしている。

 以前教会が土地問題で訴訟に数年間取り組んだことが有る。相手側から牧師と教会にたいして悪質な誹謗中傷がなされた。同時に、事情を知らない部外者から「教会は祈りを忘れた」「教会は崩壊する」等の無責任な批判が寄せられた。しかし、実際にはー 誤解を恐れず言えば ーこの時ほど教会が熱心に祈ったことはなかったし一つになって問題解決に立ち向かったこともなかった。状況をしらない偏狭な判断が、どれ程「的外れ」で非建設的なものかを示す事例である。

 聖書を読む時も、その言葉が語られたいわゆる「生活の座(Sitz im Leben)」を理解することが大切である。当時の人々が生きた具体的なあらゆる生活場面から、語られた(語らざるをえない)言葉だからこそ「状況」抜きに「言葉だけを取り出して読んでも、意味ある言葉にはならない。また、古代人の神話的世界観の用語や表現を「非神話化」しなければ、現代へのメッセージとして伝わらない。

 プロテスタント・キリスト教の三大原理は、「信仰のみ」「聖書のみ」万人祭司である。しかし残念ながら、その濃度は次第に低下している「聖書」についても、「フーポン信者」と皮肉っぽい言い方がある。普段は聖書に触れず、日曜日の朝、棚から取り出してフーと埃を払い、ポンと表紙を叩いて礼拝に持っていくのだそうだ。長年「クリスチャンしている」人の中に、意外に聖書を知らない人がいるのも確かである。もちろん、聖書日課等で毎日熱心に聖書を読んでいる多くの信者がいることも強調しておかねばならない。

 いま「聖書を読んで祈る会」では、比較的馴染みのうすい「旧約を」取り上げている。「旧=Old」なので古臭く、直接イエスへの言及がないからと敬遠する向きもあるが、ある意味では「旧約聖書」ほど現代へのメッセージが詰まっている文書はない。

 『創世記』が語る「混沌の中に神の働きと秩序を信じる」こと、『ヨブ記』の『正しい人がなぜ苦しむのか」との苦悩に満ちた問い、「神は私をお忘れになつた」と「神も仏もない?」のかと叫び訴える『詩編』の詩人。これらはまさに現代人の心の奥深いところの思いでなくてなんであろう。

 旧約の主要文書が生まれた「生活の座」がバビロン捕囚である。従来の価値観、思想、基盤等がカラガラと崩れ、多くの人が神から離れ、人心が荒廃している状況は、現代そのものでもあ。そこにおいて「沈黙している神」を信ジぬこうとし,それに賭けて生きようとした「旧約」の信仰を今に活かすのが、共に『聖書を読み、祈る」ことの意義ではないだろうか。

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