教会だより26号(抄)

ヨセフの一分(いちぶん)   牧師 土橋 晃

 『武士の一分』という映画が話題になっている。「寅さん監督」山田洋次の時代劇だ。未だ観ていないが、なかなかの傑作らしい。宣伝のためにこの題名を道行く人に読んでもらったそうだ。ところがほとんどの人が正確に読めなかったという。「イップン」―早飯の時間か?「イチブ」―武士の小遣いか?もちろん正しくは「イチブン」である。

 辞書によれば一分とは「一身の面目・職責」とある。映画は、主人公の下級武士が藩主の身代りで盲目となる。妻が上司に陵辱される。さて、彼の面目は?となるらしい。封建時代のこと、「一分が廃(すた)る」か「一分が立つ」かは大問題、あるいは「一分を捨て」愛に生きるのか。思いは乱れる。

 クリスマス物語のヨセフに「一分」を連想するのは私だけだろうか。当時の人々の生きる拠りどころであったユダヤ教の律法は、「婚約した女性は妻と等しい」「婚約中の不倫は姦淫である」と厳しく規定していた。姦淫の女性は「石打の刑」で殺されてしまう(申命記二二章・ヨハネ福音書八章)。こんな状況の中で、婚約者マリアが懐妊する。ヨセフは「身に覚えが無い」出来事を知り、驚愕した。彼は「正しい人」だったとマタイ福音書は語る。それが律法に忠実という意味ならば、死罪を要求しただろう。「一分」を立てなければならないから。しかしヨセフは冷血な教条主義者ではなかった。仮にも愛して婚約した女性を殺すことなど出来る筈もない。悶々と悩みながら、「ひそかに縁を切る」決心をする。

 ヨセフの苦悩は、同時にこの物語を語り伝えるマタイ福音書を生み出した教会(マタイ教会=教団)の苦悩でもあっただろう。『ダ・ヴィンチ・コード』にもあるように、昔からイエスに関するさまざまな伝承・伝説があり、反キリスト教の立場での言説も数多くある。聖書の中にそれへの反論や弁証の幾つかを見ることが出来る。マリアの妊娠についても、ヨセフとは別の男性がいたとか、ローマ兵に乱暴されたなどの中傷があった。マタイ教会にも疑い迷いの中で逡巡し、信仰のぐらつきを覚えた人々がいた筈だ。教会はヨセフのようにそれらの苦悩を担った。公礼拝でこの物語が語られた時、そこには人々が悩みをつき抜け、ヨセフと共にイエスを受け入れた決断があったのだ。

 眠れない夜、ヨセフの夢に現れた主の天使が語りかけた。「恐れずマリアを妻として迎えよ。胎内の子は聖霊によるのだ。その男の子をイエスと名づけよ」と。苦悩を希望へと変革する神の言葉だ。ヨセフの夢は「一分(イップン)」程の時間であったかもしれない。神はくどくど長広舌では語られない。しかしそれは、ヨセフの「決心」を覆すに十分であった。掟社会で晒し者になっても、耐えて生きる決意が与えられたのである。マタイ教会の人々も、同様の信仰的決断をもって、教会を造り上げたのだろう。それは私たちの教会にも通じる普遍性をもつ筈だ。

 ヨセフの「一分」、それを立てるか捨てるか、悩み考え続ける姿は私たちそのものであり、「神の言」がそれを方向付けるのが教会の歩みである。神に示された新しい「一分」、人を殺すのではなく生かすものとしての一分(イチブン)を、私たちも「夢一分(イップン)」で聴きつつ、悩みや動揺を担いながら「神は我々と共におられる」ことを信じて生きるものでありたい。

 嬰児イエスを抱くマリア、傍らに立って守るヨセフ、苦悩を突き抜けて新しい「一分」に生きようとする家族(それは私たちでもある)を見えざる神の大きな腕が抱きかかえる図が、クリスマスの「聖画」である。

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