教会だより24号(抄)

狂信と不信のはざま間で 
− 私たちのイースター −   牧師 土橋 晃

 長年牧師をしているくせに「今さら」と言われてしまうが、イースターを迎えるごとに悩んでしまう。多くの人たちが「キリスト教もいいのだが、〈復活〉などはちょっと……」と思っているし、信仰者でさえ「内容はよくわからないが、クリスチャンたるもの信じなければならない!」と無理に受け入れようとして判断停止状態にある人が多いことを知っているからである。

 小説家安岡章太郎氏とカトリック神父の井上洋治師の対話集『我等なぜキリスト教徒となりし乎』は内村鑑三の『余は如何にして基督教徒なりし乎』にその題名を借りたものだ。その中で、安岡が「復活」についてこう言っている。「キリスト教というものがいかにいまだに難しいというか、自分の中である種の困惑を覚えさせられるのが肉体の復活ということです」そして「信仰宣言の中で〈からだの復活を信じます〉という言葉を唱えるとき、僕はなるべく無意識になろうと努めて、心の中で目をつむって唱えているのです」。それに対して井上も次のように語る。「私もまた、死体がこの世に生き返るという意味での復活などあり得ない、と思っています。」「私の考える〈復活〉は、私が死んでも私は安岡さんと出会える、その出会える場が〈からだ〉という言葉で表現されているのだと私は思っている」と。

 福音書にあるイエスの復活・顕現物語は、現代人の私たちに簡単には理解できない。「死人が生き返り」「鍵のかかった部屋にスッと入り」「弟子たちと食事をした」などと記されたことを信じるのが信仰だとすれば、古代人にならなければ信仰者にはなれないことになる。何故なら、復活物語は二千年前の古代人の世界観に基づいた「神話的表象」で語られているからだ。他の奇跡物語も同様であり、それらをそのまま信じなければならないとすれば、「理性の犠牲」による信仰となり、聖書が求めているホントウの信仰とはかけ離れてしまうだろう。

 最古の福音書である『マルコ』はその内容の三分の一をイエスの受難=十字架に割いている。決してスーパーマン・イエスを描こうとはしていない。復活も「空虚な墓」を語るのみである。その最後の言葉は「ガリラヤへ行け」と生前のイエスを思い起こし、その生き方を同じように生きよと勧めるのである。それはイエスが過去の人ではなく、今生きて私に語りかけ出会っているという意味ではないか。「復活のイエス」が共にいてくださるという信仰ではないか。

 使徒パウロも復活については多弁である。しかしその「様子」を劇的に語ろうとはしない。「現れた」と率直に表現する。さらに「(神が)御子をわたしに示し」と言う。口語訳は「わたしの内に啓示して」である。この言葉はパウロにとって復活者との出会いが見たり触れたりできる外的現象ではなく、内的な心の深層の体験、すなわち信仰体験であることを示している。このような「復活信仰」は私たちにも起こりうるもので、現に信仰者として私たちも復活のイエスに出会っているのだ。

 狂信」も出来ず「不信」でもない私たち「ラオディキア教会」症候群者にイースターは毎年問いかけ、求めている。「目をつむる」のではなく、「目の前にはっきり示された」イエスを見つめ、信仰を確認することを。

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