教会だより23号(2006年冬号)(抄)

聞こえない音を聴く   牧師 土橋 晃

 「アズナブール流しながら、この手紙を書いています」、以前流行った曲の一節です。シャンソンを聴きながら恋文を認めている乙女の姿を彷彿とさせます。「ながら族」と皮肉られても、音楽を聴きながら仕事をしている人は多くいます。その点では筆者も人後に落ちないと「族」の一員を自認しています。

 今も、モーツアルトを聞きながらペンならぬキーボードを叩いているのですが、軽快なデヴェルティメントの響きとは裏腹に、頭脳と指とは思うように動いてくれません。

 今年はモーツアルト生誕250年で、色々な催しや演奏会、CDの企画などがあるようです。特に彼の音楽は健康によいとか頭がよくなるとかと喧伝され、いっそうブームを煽っています。以前からのファンとしては単なるBGMになって欲しくないという気持ちもありますが、愛好者の層が広がるのは悪いことではないでしょう。一つだけ腹の立つのは、15年ほど前の「没後200年記念」に、思い切って「モーツアルト全集」(CD187枚)を月賦で買いました。ところが最近のネット販売で同じようなものが十分の一の数万円で売り出されていることを知り、「モーツアルトを安売りするな!」と叫びたい思いです。(半分冗談です)

 いま、わたしたちが音楽を聴く時はほどんどCDを用います。雑音が無く、取り扱いも簡単ですから当然です。ところが一方でCDの音は痩せているとか、芯の強さ、音の躍動感が無いとか言う批判があります。その理由として、CDが人間の可聴帯域である20ヘルツから2万ヘルツの外側の音をカットしていることが挙げらています。最近の理論は、聴こえないと思われていた2万ヘルツ以上の音が、実は人間の音楽にたいする心地よさの感覚とか音楽性の大切な要素であるといいます。生演奏のよさの重要な部分だったのです。最近のDVDやSACDその他の新しい音源は、「聞こえない音」の再生に注目しています。

 先日、秋葉原を徘徊して「ツィーター」(高音用スピーカー)と「超高域を復元」するといういささか胡散臭い機器?を購入して、何とか音を良くしたいと悪戦苦闘しています。多少音が豊かになったような気もしますが、まさに「趣味の世界」で他人には通用しないことでしょうが。

 さて、旧約の人々は雷鳴に神の声を聞きました。詩編29は「主のみ声は水の上に響く。栄光の主の雷鳴はとどろく。」と詠います。「主のみ声」の原文は「主の雷鳴」(クォール・ヤハウェ)です。古代人が、光と大音響のスペクタクルに心の底から神の声を感じたのは、現代人の私たちにも理解できます。科学の発達によって、私たちは雷鳴から神の声を聴くことはありません。しかし古代人の感性を笑うことは出来ないでしょう。彼らのほうが「本物」を聞いていたかもしれません。

 神の語りかけは、可聴帯域でいつでも、安易に聞けるものではないでしょう。でも、私たちの思いを超えて「語りかけ」があります。聞こえないと思っていることに、役に立たないと思われることに、実は「大切で必要なもの」があるのです。耳を澄まして聴いてみましょう。思いもかけない言葉が聞こえるでしょう。

 多数の音や情報に取り囲まれている私たちですが、実は大切なものを聴いていないのかもしれません。古代の人々が神の声を聞いた「感性」を取り戻す必要を感じさせられます。

 モーツアルトのCDも最後の楽章を奏でています。便利なリピート(繰り返し)機能がついています。再度聴くことにします。

 

 献堂式

 11月13日、私たちは念願の献堂式の日を迎えました。この日の様子をご報告いたします。

石川 秀彦

 とうとうこの日が来た。建築の構想・準備から数えると四半世紀にもなんなんとする年月が経っての、待ちに待った当日だ。

 午前中の主日礼拝を終え、献堂礼拝に向けて、教会に携る皆さんによりその準備が開始された。2時頃にはご招待者等のお客様が来られるので、それまでには、万端整えることになる。天候は、晴天ではないが雨の心配は無用、気温はコートが要るほどではなく、小春日和のまずまずの午後であった。

 午後2時30分。鐘楼の鐘が、献堂礼拝の開始を告げた。司会者の言葉に続いて、新しく購入したチェストオルガンから、礼拝に臨む心を一つにする音色が発せられた。厳かな気持ちに、自然となってくる。

 会衆一同による讃美歌、聖書朗読、祈祷に続いて、聖歌隊の奉唱、そして土橋牧師による「献堂の辞」、続く祈祷、讃美歌21の100番斉唱。この讃美歌は、献堂式の歌詞である。次には説教『かなめ石はイエス・キリスト』。

 「献堂式」が45分ほどで終了し、引続き「献堂感謝の会」に移る。冒頭、小編成のオーケストラと聖歌隊によりバッハ曲カンタータ147番が奉唱された。次に建築経過報告と挨拶、そしてこの会堂を設計し工事を施工した2社への感謝状が贈呈され、答辞としてのご挨拶をそれぞれよりいただいた。また、教会関係者からは、3名のご来賓に祝辞を頂戴した。皆様からのご挨拶ご祝辞は、それぞれの思い入れとユーモアを交えてのお言葉で、献堂礼拝から続いた緊張が一気に解けてリラックスしたムードとなり、会堂いっぱいに華やいだ雰囲気に変わった。そして冒頭のカンタータ後半の奉唱をもってこの会は締めくくられた。さらに、アルバムの1ページとすべく、一同記念写真におさまった。すでにこの時私は、隣の席の方とは初対面と思えなくなっており、まさに「同胞」の表現が相応しい雰囲気であると感じた。

 さて、会場を隣のホールに変えての「グリーティングパーティー」となった。ここでは、久しぶりの『ご対面』が一人ひとりあるようで、グラスを片手にあちらこちらでその挨拶の言葉が聞こえていた。皆さんの笑顔は、神様が引き合わせて下さった喜びの表れであったと言えよう。ご来賓による飛び入りの余興もあり、和らいだこの時の経つのが速いこと早いこと。終了予定の4時半をはるかに超えて、お開きは午後5時を回っていた。

 数日後、参加者数は198名と聞いた。献堂の祈りに、多くの方の参加と、ご都合で欠席の方々からの祝電がとても嬉しい。これはまさに、今後の原宿教会の宣教へのエールだ。

 今冬は暖冬ということだったが、程なく朝晩は非常に寒い気候となり、年末には何十年ぶりかの大雪の地方も出てきた。この11月13日は、「何事にも時がある」という聖句を、実感した一日でもあった。

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